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第4話「長い旅を支えし者たち」

第4話 「長い旅を支えし者たち」軌道計画、地上システム設計、運用担当者

取材・執筆文 松浦 晋也

「はやぶさ」とそれまでの探査機との大きな違いは、「毎日が本番の軌道制御」 ということだ。ハレー彗星に向かった「さきがけ」「すいせい」、火星に向かった「のぞみ」などは、目的地に着くまでは、何度か行う軌道修正以外はエンジンを動かすことなく、運動の法則に従って飛行する。だからトラブルさえ起こらなければ途中の運用で行う作業は比較的単純だ。電波を受信して、探査機がどんな状態にあるかというテレメトリ・データを受信し、トラブルが起きていないことを確認し、その他到着までに行わねばならない機器の動作確認などの作業を淡々と実施すればいい。

しかし「はやぶさ」は目的地イトカワに着くはるか手前、2003年の打ち上げ当初からイオンエンジンを噴射し続けてきた。イオンエンジンを噴射し続けるということは、日々軌道が変わっていくということだ。イオンエンジンの状態に常に気を配り、予定の軌道にきちんと乗っているかを計測し、計測の結果に基づいてこれからのイオンエンジンの出力と噴射方向を算出し、コマンドを「はやぶさ」に送信する――作業量は従来の探査機と比較にならないほど多かった。
それだけではない。前人未踏の小惑星へのタッチダウンの時は、刻々と変化する状況に対して、その場でコマンドを作成して、どんどん送信していく必要があった。通信が途切れた2005年の年末には、運用に使うソフトウエアを大急ぎで組み替えねばならない事態も発生した。さらに帰還運用では、まさに満身創痍の状態であったため、工夫に工夫を重ね新たな運用方法を考案する必要があった。

7年にも及んだ「はやぶさ」の運用をNECの技術者らは、支えきった。6月13日の劇的な帰還は、2003年5月9日の打ち上げ以来、一日も休み無く積み上げられた日々の運用の結果といえる。

今回は、「はやぶさ」の軌道計画立案の時から帰還にいたるまで、軌道系の運用を担当した松岡、運用を支えた臼田局の運用設備を担当した杉浦、そして毎日の運用の最前線を担った川田、中村の4名で、「はやぶさ」の7年に及ぶ運用を振り返った。

写真:はやぶさ探査機本体及び地球帰還カプセル再突入
2010年6月13日22時51分頃
はやぶさ探査機本体及び地球帰還カプセル再突入

イトカワへの長い日々、運用者達の日常

Q:
まず、「はやぶさ」の運用は具体的にどんなものだったんでしょうか。
松岡:
チームを組んで一週間単位で行います。まず、運用の責任者であるスーパーバイザーがいます。これはJAXAの方が担当します。そして探査機の姿勢担当、軌道担当といったメーカー技術者が入ります。そして中村さんや川田さんのような、直接のコマンド送信を担当する方がいます。これに運用当番と呼ばれる学生さんなどが加わって、だいたい5~6人が一つのチームになって一週間単位で交代しながら、探査機の面倒を見るわけです。
中村:
私と川田さんは2人で二週間から三週間ずつで交代しながら、7年間、「はやぶさ」の運用に参加しました。役割はコマンドの送信です。立案されたコマンドは、すべて私たち2人のどちらかの手で、「はやぶさ」に向けて送信されたわけです。
写真:軌道計画担当 NEC航空宇宙システム 松岡 正敏
軌道計画担当
NEC航空宇宙システム 松岡 正敏
Q:
ちなみに、コマンド送信はどうやってやるのでしょうか。バシッっとキーボードのエンターキーを叩くとか……。
川田:
そうですね、今は運用を行うパソコンのキーボードでコマンドを入力し、エンターキー一発で送信します。以前はボタンやスイッチが付いた専用の操作卓で行っていました。今のようなキーボードで操作を行うようになったのは、1998年に打ち上げた火星探査機「のぞみ」からです。
Q:
一週間はどんなスケジュールで回していたのでしょうか。
松岡:
火曜日が一番大事な日で、一週間分のコマンドをまとめて送信することになっていました。水曜日が軌道決定の日で、イオンエンジンを止めて、「はやぶさ」の飛んでいる軌道を計測します。木曜日には、翌週の軌道計画を立てます。水曜日に測定したデータに基づいて、次の火曜日からイオンエンジンをどちらの方向にどれほどの出力で噴射するかを計算し、「はやぶさ」の運用を決める運用会議に提案して了承を得ます 。運用そのものは土曜日も行って日曜日がお休みです。金曜日は、火曜日に送信するコマンドの作成を行い、また火曜日になってコマンド送信、この繰り返しでした。
Q:
軌道の計測はどのように行うのでしょうか。
杉浦:
それは地上系のソフトウエアを担当した私から説明しましょう。軌道の計測はレンジングとドップラーシフトの計測に分かれます。レンジングは、「はやぶさ」に特定の信号を送り、探査機側が同じ信号をオウム返しに返してくる時間を測定し、距離を調べるというものです。ドップラーシフトの計測は、受信する電波の周波数のずれから距離の変化率を測定するというものです。距離と距離の変化率の2つが分かれば、探査機が飛んでいる軌道を決定できます。
松岡:
ドップラーはほぼ毎日測定しました。一方レンジングは週に1、2回でした。得られたデータから軌道が決定されます。 私は得られた軌道から次の軌道計画を作成するという仕事をしたわけです。化学エンジンを使う場合は、目標の軌道にいったん投入した後の運用は、探査機の状態を調べる程度の淡々としたもの なのですが、「はやぶさ」は、イオンエンジンを噴射し続け、日々軌道が変わっていくので、毎週軌道計画が必要になるわけです。毎週毎週、ひたすら軌道を計算しなくてはなりませんでした。
写真:地上システム設計担当 NEC航空宇宙システム 杉浦 正典
地上システム設計担当
NEC航空宇宙システム 杉浦 正典
Q:
軌道計算ではどのあたりで苦労したのでしょうか。
松岡:
「余裕を持たせてくれ」と随分言われました。「軌道計算は最適であるべきなのだけれど、最適なだけではダメだ。なにかトラブルが出た場合もリカバリーが効くような余裕を軌道計画に入れておいてもらいたい」というのです。いつもなら「ばりばり計算して」ぎりぎりまで最適化した軌道を算出するのですけれど、それではダメということで、そのあたりは工夫のしどころでした。
Q:
往路ではどのあたりが印象に残っていますか。
松岡:
2004年5月の地球スイングバイの後ですね。イトカワにランデブーするため「はやぶさ」の軌道をイトカワの軌道に合わせていくのはかなり大変でした。特にイトカワ到着前の7月にリアクション・ホイールが1基壊れたのは痛かったです。これで予定していた時期 にイオンエンジンを噴射することができなくなってしまったんですよ。「軌道計画のほうを変えてなんとかしてほしい」と言われて、結局イオンエンジンの担当者と相談してイオンエンジン3基の全力運転でやっと到達しました。イトカワが見えてきた時は、本当に「着いた!」と思いました。「これで休めるぞ」とも(笑)。でも、10月に2基目のリアクションホイールが壊れたことで、観測運用にも連日の軌道計画が必要になって休めませんでした。
図版:小惑星到着までの軌道
小惑星到着までの軌道

川田:
2005年のタッチダウン運用の時は、私と中村さんは12時間勤務2交代で休みなしの24時間運用となりました。
松岡:
で、私も休みなしです。(笑えませんね)
中村:
なぜか、なにかがあるときは川田さんじゃなくて、私が運用に参加している時なんですよ。大きなイベントが起きるときはいつも私が当番なんです。11月19日から20日にかけての第1回タッチダウンの時は、ちょうど川田さんから私に交代になったところで本番となりました。
川田:
私も本当は帰って休養しなくちゃいけないんだけれど、安心できなくって帰るに帰れず、運用室で見ていました。
中村:
最後の着陸動作に入って、どうやら着陸したらしいんだけれど何が起きているか分からない。運用室に詰めた皆さんも「どうなっているんだ?」と考え込んでしまっていて、次に送るコマンドの指示がなかなか出ないんです。
Q:
後で30分も着陸しっぱなしだったと分かった時ですね。
中村:
結局、化学エンジンを噴射して緊急離陸させました。
松岡:
あの時は、次のタッチダウンを11月26日にやって、12月初旬にはイトカワを出発しないと、2007年の帰還ができなくなるというせっぱ詰まった状態でした。エンジンの噴射って何回やったっけ?2回?……
中村:
3回です。
松岡:
そうか、3回か。「え、そんなにイトカワから離しちゃうの」と思いつつ見ていました。
Q:
あの時は凄かったですよね。イトカワから100km以上離れたんでしたっけ。9月の到着時は慎重に慎重にゆっくりとイトカワとの距離を詰めていたので、はたから見ていると、この時は「こんなに離れたら、もうイトカワへの着陸は無理だな」と思いました。だから2日で第2回のタッチダウンの準備を終えたのには本当にびっくりしましたよ。
松岡:
「2日で元の位置に戻して欲しい」と言われました。イトカワは「はやぶさ」のカメラの視界に入っていましたから、とにかくえいやっと化学エンジンを噴射してしまおう、と。思いきりですね。こんな思い切ったことが出来たのは、運用チームがそれまでにイトカワ周辺での運用に慣れていたことが大きいです。

みんなの思いが呼んだ、奇跡の復活

Q:
2回目のタッチダウンの時も、コマンド送信は中村さんだったのですか。
中村:
そうです。私の担当時間帯でした。ジンクスですね。
杉浦:
通信系の故障に備えて私も相模原に詰めていました。
Q:
その時はまだ杉浦さんの出番ではなかったわけですね。その後が大変なことになるわけですが。
杉浦:
そうです。2回目のタッチダウン成功後の2005年12月8日に通信が途絶して、緊急に「はやぶさを見つける手助けをしてほしい」と電話がありました。
「こういうソフトを作ってくれ」と相談を受けて、その日はチームメンバーと2人で徹夜して救出運用のためのソフトウエアを書きました。このソフトは12月中に運用の結果を受けて何度も手直しして使いました。川口先生は「絶対見つかる」と言っていました。通信が途絶した探査機の復旧が困難であることは当然ご承知だったと思いますが、確信を持っておられましたね。最初から再度運用に復帰することを前提に色々な話を進めていましたから。
Q:
コマンドを送る側として、探査機からの返事がない状況はどんなものなんでしょうか。
川田:
私たちは、火星探査機の「のぞみ」でも、長期間返事が返ってこない状況での運用を経験していますから、まあ慣れていたといっていいと思います。本当はそんなことはあっちゃいけないのですけれど。アンテナの先には「はやぶさ」が必ずいる。返事がないだけだ、と、あまり悲観はしていませんでした。
杉浦:
川口先生に「見つからないはずがない」と言われていたので、余計な不安を抱くことなく復旧運用に専念できたと思います。だからあまり緊急事態だと思わないようにしました。
松岡:
探査機が低温で壊れていなければ、いつかは太陽電池に光が当たって絶対に返事を返してくると私も思っていました。
写真:運用担当 NECネッツエスアイ 川田 淳
運用担当
NECネッツエスアイ 川田 淳
中村:
ここでも、なにかあるときは自分が当番という法則が発動しまして、12月の通信途絶の時も、1月の復活の時も自分が当番でした。2006年1月23日、受信電波を分析する装置の画面に、小さな電波のピークが立ったんです。帰ってきたという思いでした。
杉浦:
通信復活の時、私は改修工事の用件があって、たまたま臼田に行っていました。臼田局の担当の方がずっと画面を見ていました。するとノイズにまぎれるかのような小さなピークが、ぴっと立ったんです。「これかな」「これだよね」といった会話をしたのを今も良く覚えています。
写真:臼田宇宙空間観測所 研究棟と64mパラボナアンテナ
臼田宇宙空間観測所 研究棟と64mパラボナアンテナ
写真:研究棟内の地上運用装置(アンテナ管制卓)
研究棟内の地上運用装置(アンテナ管制卓)

中村:
本音を言いますとね、みんな確信は持っていたわけですけれど、それでも私は「奇跡だな」と思いました。
松岡:
確かに「絶対に返事をしてくる」と考える一方で、心の中のどこかには、「もう通信が途切れて終わりになっちゃうのかな」という思いも正直ありました。相模原の運用チームのみんなが諦めなかった、というのが大きいと思いますよ。諦めない姿勢が「はやぶさ」の復活を呼び込んだんです。
杉浦:
通信が復活したといっても、最初は30分ほどの周期の間でほんの数分だけ通信が出来るといった状況だったので、色々苦労をしました。最初は1ビット通信です。「はやぶさ」にはキャリアのレベルを2段階に変化させる機能が付いていて、それを使った1ビット通信で、向こうの様子を把握し、徐々に立て直していきました。
写真:運用担当 NECネッツエスアイ 中村 陽介
運用担当
NECネッツエスアイ 中村 陽介
松岡:
先ほどもお話しましたが、当初は12月初旬にはイトカワを出発して、2007年に帰還する予定でしたが、この通信途絶の時点で帰還のタイミングを逃してしまったので、「帰還軌道は「はやぶさ」が見つかってから考えよう」と思っていました。見つかって状況が分かってからでないと、どこがどう壊れているか分からないので、帰還軌道の計画も立たないのです。「見つかると、またつらい日々がはじまるなあ」などとも感じていたのですが(笑)、「はやぶさ」が見つかり、リスタートになりました。

一緒に成長できた幸運、そして最後の運用

Q:
具体的に復路の軌道計画は、往路と比べてどう変わったのでしょう。
松岡:
2基のリアクションホイールに加えて、この時点で燃料漏洩により、姿勢を制御できる化学エンジンも使えなくなっていたので、往路とはかなり考え方を変えなければなりませんでした。具体的には、イオンエンジンに頼るしかなくなったので、イオンエンジンを止めるわけにはいかなくなったわけです。往路では推進剤のキセノンの使用量を減らすことを一番に考えて軌道計画を最適化していったのですが、復路では「多少効率が悪くてもいい。ここはイオンエンジンを運転し続けるほうが優先だ」ということになりました。多少は軌道が振れてもいい、最後にきちっと帳尻があってぴったり軌道が合えばそれでいいという方針で軌道計画を行いました。
Q:
しかし、最後はまさにどんぴしゃりの精度でオーストラリア・ウーメラ砂漠に再突入させることに成功しました。最後の何回かの軌道修正(TCM)はどうやって決めていったのでしょうか。
松岡:
2010年2月に入ってから、何度も打ち合わせをして最終的なTCMの方針が決まりました。太陽方向やアンテナの向きなどからくる制約が思っていたよりもきつくて、なるべく「はやぶさ」の姿勢を変更しないでTCMの噴射を行わねばならないことが分かりました。、「いつ、どの方向にどれだけイオンエンジンを運転するか」というTCMの組み合わせを見つけるのが大変に難しかったです。
考え方を分かりやすく説明すると、「はやぶさ」を地球に正確に導くということは、地球と「はやぶさ」の位置を合わせることなのですが、TCMでは、さまざまな制約により 噴射時刻と限られた範囲の噴射の方向という2つのパラメーターしか変えることができませんでした。だから、合わせていくパラメーターを2つに絞るという戦略をとりました。つまり、再突入の時刻と、その時の地球中心からの距離の2つです。この2つのパラメータを組み合わせることでTCMの軌道計画を作成していったのです。

■「はやぶさ」試料回収カプセルの再突入結果について(2010年6月16日発表資料より)

図版:「はやぶさ」試料回収カプセルの再突入結果について
  • TCM:軌道修正 (Trajectory Correction Maneuver) イオンエンジンにて実施のため長時間を要する。

Q:
6月13日、帰還の日、皆さんどこでどうしておられましたか。
川田:
私と中村は、2人とも相模原の運用室でコマンド送信卓についていました。再突入カプセルの分離前後は送信するコマンドが多かったので、2人体制で送信することになったのです。
杉浦:
タッチダウンの時と同じで、通信システムのトラブルに備えて相模原で待機していました。
松岡:
運用室で、分離後に軌道データを受け取って、再突入カプセルがどこに落ちるかという計算をウーメラの回収隊にいる担当者と連絡を取りながらしていました。最後に「はやぶさ」が地平の向こうにいって電波が届かなくなり、運用室では「わっ」と拍手が起きたのですが、私はそれを横目で見ながらせっせと計算していました。実際には再突入はきれいに予定通りにうまくいったので、私の計算は不要になったのですけれど。(笑)
Q:
最後は宇宙研の橋本先生が、カメラを復活させて地球を撮影しようとして四苦八苦していたと聞いています。最後に「はやぶさ」に送信したコマンドはどんなものだったんでしょうか。
中村:
ここでも最後は私でした。最後のコマンドは、データレコーダーに記録されたデータを一気に地上へ送信しろ、というものです。コマンドの実行途中で通信が途切れたのですが、それがあの最後の地球の画像 です。
写真:はやぶさ最後の地球撮像画像

川田:
本当は再突入の瞬間まで追いかけたかったよね。最後の運用は内之浦の34mパラボラアンテナを使って行ったのですが、「はやぶさ」が山の影に隠れて、通信が途切れたのです。その時「山だよ」と声が上がりました。
松岡:
普通、衛星は地上から停波コマンドを送信して、運用を終了するのですが、「はやぶさ」の場合は電波の見通し外へと消える終わり方でした。珍しいパターンでしたね。
Q:
7年間に及ぶ運用を終えて、なにか感想はありますか。
杉浦:
幾多の苦難を乗り切った、本当に幸運な探査機だと思います。
川田:
私は、最初から最後まで運用に関わることができた自分も幸運だったと思っています。
中村:
私もですね。最初から最後までやったというのが自分の宝物です。
松岡:
幸運かなあ……つらいこともありましたけれど、「はやぶさ」は、技術者としての自分の成長を実感できた探査機でした。願わくば、後輩達にも同じような経験を積む機会があればいいなと思います。
写真:取材中の様子

6月13日、内之浦34mパラボラアンテナは、「はやぶさ」との最後の通信を実施した。午後7時51分、再突入カプセルを正常に分離。カプセルが分離したことで、「はやぶさ」の姿勢はゆっくりと崩れ始める。奥の手であるイオンエンジン中和器からのキセノン生ガス噴射で姿勢を建て直しつつ、ずっと電源を切っていた航法用広角カメラを起動。地球の撮影に挑み始める。なかなか言うことを聞かない機体をぐるりと回してカメラを地球に向け、最後の画像を撮影する。午後10時28分、最後の画像を送信する途中で、内之浦から見る「はやぶさ」は地平線の山の端に没して通信は途切れた。7年に及ぶ「はやぶさ」運用はこうしてすべて終了した。
その時、運用室にざわめきが起こった。3つの花束が出てきたのだ。贈られたのは、川田、中村など7年もの長い間、はやぶさにコマンドを送り続けてきた男達だ。事前に知らされていなかった彼らは驚いた。


川田:
それはびっくりしましたよ。
中村:
え、自分がうけとっていいの?

そして拍手、また拍手。彼らが表舞台に立つことはない。しかしその働きは探査機運用に不可欠だ。花束は一瞬、彼らにスポットライトを当てたのだった。

写真:相模原の運用室で花束を贈られる川田と中村
相模原の運用室で花束を贈られる川田と中村

相模原の管制室が拍手で満たされたその時、はやぶさは地球大気圏再突入を控えてオーストラリア大陸に近づきつつあった。その目には大きく拡がった夜の地球が見えていた。
光はオーストラリア西海岸の都市であり、その先に控える闇の中に、7年もの旅の終点、ウーメラ砂漠が控えていた。
「還ってきた・・・・」長い旅を支えし者たちへの小さな花束は、はやぶさから贈られた最後の感謝のメッセージだったのかもしれない。

写真:集合写真

写真左から

NECネッツエスアイ
社会インフラシステム事業部 宇宙フィールドサービス部所属
川田 淳

1992年入社以来、科学衛星運用業務一筋に従事、「はやぶさ」の運用を経て、現在は金星探査機「あかつき」の運用業務に従事。

NECネッツエスアイ
社会インフラシステム事業部 宇宙フィールドサービス部所属
中村 陽介

1993年入社以来、科学衛星運用業務一筋に従事、「はやぶさ」の運用を経て、現在は太陽観測衛星「ひので」の運用業務に従事。

NEC航空宇宙システム
宇宙・情報システム事業部 第二技術部
マネージャ 杉浦 正典

入社以来、ロケット・人工衛星の地上システムの設計を担当。

「はやぶさ」では、深宇宙探査機用の追跡局ソフトウェア設計を担当。

NEC航空宇宙システム
宇宙・情報システム事業部 第三技術部
主任 松岡 正敏

深宇宙探査機(はやぶさ、かぐや等)の軌道計画を担当。「はやぶさ」では、開発初期から帰還運用に至るまでを一貫して担当。

取材・執筆文 松浦晋也 2010年7月7日