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NECの歴史を知る

120年以上にわたるNECの歴史を年表に添って知ることができます。

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NECの歴史上のスゴイ人(創業時代)

岩垂邦彦氏(いわだれくにひこ)1857-1941

“技術に国境はない”を実践した人

海外の先端技術を学び、国産技術発展に寄与

岩垂邦彦(いわだれくにひこ)は、1857年福岡県に生まれ、工部大学校電信科(現・東大工学部の前身の一つ)を卒業。工部省に勤めた後、渡米し、エジソン・マシン・ワークス(現・GE社の前身の一つ)に入社。エジソンと共に働いた、数少ない日本人として知られています。

帰国後、大阪電燈(現・関西電力の前身の一つ)初代技師長を経て、1899年、42歳でウェスタン・エレクトリック社との合弁会社「日本電気株式会社」を創業。日本初の外資系企業の代表者として、事業発展を牽引しました。

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NECの歴史上のスゴイ人(独自技術開発の始まり)

丹羽保次郎氏(にわやすじろう)1916-1975

NECの技術のパイオニア

独自開発による写真電送方式

丹羽保次郎と小林正次は、現在のFAXの基礎となる独自方式の写真電送装置を発明しました。当時の写真電送装置は、送信機と受信機は別々の構成であり、専用の通信回線を使用していました。

昭和3年(1928)11月に執り行われた昭和天皇即位式の写真を、いかに早く新聞に掲載し全国の読者に報道するかが当時の最大の関心事であることから、新聞各社は競って海外の写真電送装置を購入しましたが、事前の実験ではうまくいきませんでした。そこで、開発間もない丹羽・小林の写真電送装置を採用したところ大成功を収め、日本初の実用化がなされました。

当時、欧米からの技術導入が中心の先端分野の電気技術に対し、写真電送の分野は純国産技術によって確立され、その後の日本のFAX技術の発展に大きく貢献しました。

(出典「日本の十大発明家 偉大な発明の数々」特許庁)

丹羽保次郎博士の、日本電気の技術のパイオニアとしての数々の足跡の中で、特にハイライトともいうべきものは、昭和3年のご大典に際したNE式写真電送装置の成功であろう。

私は、その翌年に日本電気に入社したが、当時すでに、自らの技術を以って新時代を切り開いて行こうという気風が、会社に漲っていた。

これは取りもなおさず、技師長としての丹羽博士の、優れたお人柄と、並々ならぬ指導力によって、育まれた社風であったと思う。その伝統が、脈々として今日の日本電気に生きているのである。

小林宏治氏

©NEC特許技術情報センター

若き技術者に贈る言葉

技術は人なり

  • 技術は多数の要素が総合されたものであり、技術者の構想を多分に必要とする。
  • 技術も文学や美術と同じく、やはり人が根幹をなすもの。
  • 技術者は常に人格の陶治を必要とする。

全力投球

  • 技術者は研究でも設計でも、工作でもいつも全力投球の覚悟を持って当たれ。

縁の下の力持ち

  • 人類の幸福のために縁の下の力持ちになるつもりで努力せよ。
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技術の粋を集め、実用化された国産交換機

●拡大する電話網に、クロスバ導入は急務

市内クロスバ交換機の一次試作機(1954年、電気通信研究所に納入)

1940年代後半、市外通話は特急で申し込んでから1〜2時間待ち、電話加入は2年待ちが普通うという状態でした。

電電公社は、発足の翌年1953年に「第1次5ヶ年計画」を開始し、国産クロスバ交換機の研究開発を開始、電気通信研究所は共同研究のパートナーとしてNECを指名しました。

第1次試作機納入までの期間は1年、当初NECの方式設計者はわずか7名という体制でした。

第1次研究試作機は1954年11月に完成し、通研実験局に納入された。第1次・第2次試作後の1956年9月、NECは国産初の局用クロスバ交換機を栃木三和局に納入しました。

●ベル研は失敗、だがNECは一歩を踏み出した

その後、クロスバ交換機は1957年に実用化が完了した。米国のベル研は日本の数十倍の予算と、5倍の研究員を投入しながら、開発に失敗していました。

クロスバ交換機は日本で発明された基本技術ではないが、日本で初めて国産技術によって方式、回路、部品など独自に開発した交換機である。当時では世界的に高い性能をもったレベルにあり、NECはこれをベースに輸出用のクロスバ交換機を開発し、輸出事業で多大な成果を挙げ、その歴史は、次期機種の電子交換機へと引き継がれたのでした。


©NEC特許技術情報センター

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NEC初の商用コンピュータ NEAC-1102

●世界に類をみない高精度科学技術計算を実現

NEC初の商用コンピュータ。(東北大学の計算機プロジェクトとNECの共同開発)日本で生まれた高信頼性、長寿命の「パラメトロン素子」を採用し、不動小数点演算と固定小数点演算方式を命令によって切り換えられる、1,024語の大容量記憶装置などの特徴を持っていました。

「パラメトロン式実用コンピュータの誕生によって、フィルター開発はもとより、社内におけるその後の新技術、新製品の開発に必要な技術計算が飛躍的に容易になった意義は大きい」
(「C&Cは日本の知恵」小林宏治著より)

●「コンピュータをやらせて欲しい」
小林宏治氏(当時 玉川製造所長)に直訴

渡部 和 氏
わたなべ ひとし
(1930〜)

1954年春、入社1年目の渡部氏は、玉川事業所伝送技術課で、濾波器(フィルター)設計を命ぜられた。膨大な数値計算に明け暮れる中、コンピュータの必要性を痛感し、小林宏治氏に直訴した(1955年5月)。その後、研究所のコンピュータ研究グループに参加。昼は回路設計業務に専念、夜は研究所のスタッフと勉強会を重ねました。

1957年4月、東北大学との共同開発の話が持ち上がり、東北大学は渡部設計を全面的に受け入れ、1958年3月NEAC-1102の開発に成功した。その後、改良強化したNEAC-1103(1960年完成)は、回路網設計専用機として社内にも設置。思い立ってから6年、20代の青春の全てを捧げた熱き思いは結実しました。


©NEC特許技術情報センター

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玉川の運動場から始まったマイクロ波・衛星通信

世界初の独自技術で140カ国に輸出

森田 正典 氏
(1915〜2009)

現在イベントや大事件でおなじみの衛星中継は、NECの技術があって初めて実現したものです。森田正典氏は、当時の学会論争に決着をつけた発振増幅共用方式(1958年、恩賜発明賞受賞)や高感度受信方式(インチキと酷評されながらも、1966年発明表彰科学技術庁長官賞受賞。伊東祐弥氏と開発。)を次々と実用化。この方式はその後、見通し外通信や衛星通信で大きく開花し、衛星通信地球局のシェアは約50%。海事衛星用海岸局に限ると60%以上と、この分野では世界第1位の地位を築きました。

「われわれ若い技術者が新しい技術を考え出し、会社を活性化させるのが一番」

1949年のある日の昼休み、玉川事業場の運動場の片隅に4人の若い技術者が集まりました。無線の森田正典氏、川橋猛氏、半導体の長船広衛氏、真空管の見目正道氏でした。森田氏はこう切り出した後、「マイクロウェーブによるテレビの無線中継を研究している。これは将来、日本にとっても、会社にとっても重要な技術になると確信している。ついては君たちにも協力してもらいたい。」と協力を要請し、約1年半にわたって毎日昼休みを利用して、情報交換をしながら研究を進めました。これが後の大躍進に繋がることになります。


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世界初144ビットnチャネルMOS型メモリ

業界も見放していた技術に挑戦

1966年に通産省の大型プロジェクトでNECがメモリ担当となったことが、高速nチャネルMOS型メモリ開発の幕開けです。当時、pチャネルが世界的な傾向であり、インテル社をはじめ半導体業界では「nチャネルは技術的に量産は不可能」が通説でした。そのようななかでNECメモリ開発陣は、画期的な絶縁技術を確立し1968年144ビットnチャネルMOS型メモリを完成させました。成果を1969年に国際固体回路会議(ISSCC)で発表しました。会場は通路まで聴衆で埋まる好評ぶりでした。その後、nチャネルが世界標準となりました。

リーダの熱意に動かされ開発を決断

電卓1つとってもすべてpチャネルであった当時、開発リーダ松倉保夫氏は「必ず大容量高速データ時代がくる。nチャネルメモリ開発をやらせてほしい。」と集積回路事業部長だった大内氏に直訴しました。大内氏は、他社プロジェクト委員から「MOSメモリを採用するなど、国の研究目標を個人的な趣味で決めては困る。」と言われていました。しかし、松倉リーダが出したデータはnチャネルはpチャネルに比べ約3倍のスピードを確保でき高速化に有利という結果でした。
大内氏は、松倉リーダをはじめ部下の熱意に動かされ開発を決断、通産省のプロジェクトでも高速nチャネルメモリの開発が決定しました。


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NECの歴史上のスゴイ人(C&Cの時代)

小林宏治氏(こばやしこうじ)1907-1996

1977年にC&Cの概念を提唱

「21世紀の初めには、『いつでも、どこでも、誰とでもお互いに顔を見ながら話ができる』というところまで広がります。・・・そのときはすべての技術、つまり通信、コンピュータおよびテレビジョンは、このようなニーズに対して統合されるでしょうし、またそうあるべきです。そのためには発展途上国がそのような世界通信システムに参加できるように、これらの国々を援助することが重要になります。」

1977(昭和52)年10月10日、アメリカのアトランタで開催されたインテルコム77で小林宏治会長は、日本電気を「世界のNEC」に飛躍させた画期的コンセプト「C&C(The Integration of Computers& Communications)」の先駆となる基調講演をアメリカで行なった。このスピーチを境に、日本電気は単なる通信機器とコンピュータをつくる企業から、日本の情報通信産業の担い手へと大きな変身を遂げました。

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パソコンシェアNo.1に繋がったマイコン販売戦略

国内初のマイコントレーニングキット「TK-80」を発売

渡部 和也氏
(1931~)

大内 淳義氏
(1919~1996)

渡部和也部長率いるマイクロコンピュータ販売部はユーザにマイコンを理解してもらい、新たな市場を開拓するため、1976年8月トレーニングキット「TK-80」を発売し、秋葉原にサポートセンター「Bit-INN」をオープンしました。

「Bit-INN」は連日大盛況で、「TK-80」は2年間で6万台を超えるヒット商品となりました。

このユーザ熱の高まりが1979年5月のNEC初のパーソナルコンピュータ「PC-8001」の発売に繋がりました。NECは「PC-8001」で国内パソコンシェアNo.1を獲得し、パソコン事業において一気に優位に立ちました。

この熱気は本物だ

社内にはデバイス部門がトレーニングキットの完成品を売る事をタブー視する声があったため、大内淳義取締役のアイデアにより部品として販売することになりました。

そのためユーザサポートの目的で「Bit-INN」が開設され、マイコン販売部員も交代で連日対応に当たりました。
「Bit-INN」は大晦日でも客足が途切れる事はありませんでした。皆がマイコンを個人用のコンピュータとして使おうとしていました。アンテナショップの役割を果たしていた「Bit-INN」の中で担当者が肌で感じたユーザのニーズに応える形で製品化した「PC-8001」には、発売当初から予約が殺到しました。


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米国が「コンピュートニク」と驚愕した世界最速のスパコン

地球規模の気候変動予測を行うために1997年に計画された「地球シミュレータ」、要求される性能は当時のスパコンの1000倍という破格のレベルでした。NECはのべ1000人を投入、NECグループの最先端技術の粋を結集して、目標性能をクリア。2002年3月に当初の予定通り運用を開始しました。
「地球シミュレータ」は2002年6月のスパコン性能ランキング「TOP500」で他機種に圧倒的な差をつけて1位を獲得し、2年半にわたってトップの座を守りました。

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世界で誰もやったことのないチャレンジ

目指したゴールは「技術の実証」だった

「小惑星探査機」として知られているはやぶさは、同時に「工学実験機」でもありました。その目指したものは、小惑星イトカワにたどり着くためのイオンエンジンによる推進や長期連続稼働から、イトカワから採取したサンプル収納カプセルの大気圏再突入とその回収まで、さまざまな段階で必要な技術の実証でした。プロジェクトマネージャーを務めたNECのエンジニアはこう語っています。

「サンプルを採取して戻ってくることは、ある意味では『ものすごく大きなプレミアム』で、ゴールはあくまで技術の実証。技術の実証には必ずチャレンジが必要です。タッチダウンという『はやぶさ』でなければできないチャレンジをして、そのチャレンジによって得たものこそが重要なのです」

「チャレンジの塊」からNECが得たもの

リュウグウへのタッチダウンに成功した「はやぶさ2」
イラスト:池下章裕

はやぶさは道中で多くの困難に直面しましたが、その多くはチャレンジして初めて分かったことでもありました。

「例えば1 回目のタッチダウンには失敗しましたが、その理由は想定外の異物を障害物センサーが検出したためです。障害物についてもいろいろなケースを想定していましたが、その想定が完璧ではなかったことがイトカワまで行ったことで分かった。こうした『やってみて初めて分かった』ことは開発・運用の期間中にたくさんありました」

未知の領域を切り拓くためにチャレンジし、そこで得た教訓を次につなげる。はやぶさのチャレンジから得られた成果は、2014年12月に打ち上げられた本番機の「はやぶさ2」に確実に反映されています。

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Value Day 2019
社長メッセージ

NECは今日、120歳の誕生日を迎えることが出来ました。
皆さんと、この誕生日のお祝いを盛大にできることを、本当に心から嬉しく思います。

NECは1899年に設立以来、通信とコンピューターの力で時代を次から次へとつないできた会社です。そして特に1977年、「C&C」というスローガンを発表して以来、まさに1980年代、90年代と世界をリードするグローバル・リーディング・カンパニーだったと思います。

今日のこの日を迎えられたのは、これまでの歴史を作っていただいた諸先輩たち、NECを選んでいただいたお客様や社会、そして何よりもこれを支えてき従業員の一人一人の皆さんの努力の賜物だと思います。

これら全ての人たちに対して、改めて感謝を申し上げます。

私は15代目社長として、今この場に立っています。そして大きな責任を感じています。

社長としての仕事は、短期的な予算の達成、あるいは中期的な中計を達成することだけではなく、このNECという会社をこれから50年、あるいは100年先までも強い会社として存続するために、今何をやらなくてはいけないのかを徹底的に考え、それを実行することこそが、私の大きな仕事だと思っています。

これからの企業の寿命は10年だと言われる、非常に不確実性の高い時代で、50年や100年先の話をしてもしょうがないじゃないか、という風に思っている方もたくさんいると思います。

しかしながら、これから起こる様々な変化に柔軟に、俊敏に適応し続け、あるいは私たち自らが変化を起こせる、そういったことが出来れば企業というものは永遠に存続するものではないでしょうか。

世の中は、デジタルトランスフォーメーションの時代を迎えて、あらゆるもの全てが変化をしていきます。そして、どの時代もその変化を見出す物はテクノロジーです。

これからはコンピューターや通信技術の更なる高度化、AI、バイオメトリクス、ブロックチェーン、IoT、様々なテクノロジーがこれからの時代を変えていきます。

ここで皆さん、考えてみてください。今言った技術は全てNECグループが持っている技術です。“NECはこれからの時代を変えていく力を持った会社”なのです。

そして、そこで働く我々全員は、世の中を変えていけるチャンスがあるということです。これは本当に素晴らしいことだと思います。

それでは、どうやったらこのチャンスを活かせるのか? その答えがCode of Valuesです。

一つ、視線は外向き、未来を見通すように。

内ばかりを見てても何の新しい価値も生まれません。常に、外がどうなっているかということを、常にチェックしながらお客様に新しい価値を提供し続けます。

二つ、思考はシンプル、戦略を示せるように。

これは徹底的に物事の本質を考えぬくという事だと思います。
要らないものは全部そぎ落として本当に本質だけに迫っていけば、物事はすごくシンプルになっていくと思います。

三つ、心は情熱的、自らやり遂げるように。

これは、全ての人が強いオーナーシップを持つということです。
NECに、傍観者はいりません。
一人一人が自ら考えて自ら行動する、そういった文化が必要になっていくかと思います。

四つ、行動はスピード、チャンスを逃さぬように。

どんないいものでも、スピードが遅ければ、それは何の価値も生み出しません。
失敗を恐れることなく、どんどん新しいことにチャレンジしましょう。

そして、最後の五つ目、組織はオープン、全員が成長できるように。

これは、全てのマネジメント業務の方にお願いしたいことです。
マネジメントに傲慢さは絶対にいけません。
自分の考えることだけが正しいと思って、それを下に押し付けることは、絶対にあってはならないことです。
様々な人の意見を聞き、常に勉強し続け、そして謙虚な姿勢を持つということが最も大事じゃないでしょうか。

この五つのバリューの根底には、全ての人たちが高い倫理観、integrityの精神を持つということは言うまでにもありません。

NECグループの11万人が全て、こういった行動ができるようになれば、NECは必ず再び世界をリードできるカンパニーになると私は信じております。

大切なことは、皆さん一人一人が努力をし、成長し、そして成功を勝ち取るということです。皆さんの成功は誰かが与えてくれるものではありません。

一人一人が自助の精神で、自分たちが自ら勝ち取っていくものだという、高い志と熱い情熱を持って輝ける未来を勝ち取っていってほしいと思います。

私の今の志は、NECを強い勝ち続ける企業にしていきたい、そのために必要な強い企業文化を全力で作っていきたいと考えています。

最後になりますけれども、今日を迎えるにあたって、改めて皆様方一人一人の日々の努力に、感謝を申し上げたいと思います。

NECはもっともっと成長できる会社です。再び輝ける新しい未来を創造し、我々グループ社員11万人の力を結集して、一緒に頑張りましょう。

以上