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第1話「天と地をつなぐもの」
取材・執筆文 松浦 晋也
2010年3月27日午後3時17分
「はやぶさ」からの電波は2700万km彼方の宇宙から届いた。
電波を受信したのは、八ヶ岳山麓の臼田町にある、直径64mの深宇宙通信用パラボラアンテナだった。受信信号は地上回線を通じて、神奈川県相模原市にある宇宙航空研究開発機構(JAXA)・相模原キャンパスの衛星運用室に届いた。信号はコンピュータによる処理を受け、ディスプレイ上に表示される。
運用室を声が飛び交う。
「軌道系、順調か?」
「イオンエンジン順調。ΔV(デルタ・ブイ:軌道制御量)は予定通りです」
「よし、イオンエンジン停止!第二期軌道制御終了!」
姿勢制御を担当している白川健一が、次々とデータが移り変わる画面を見つめながら「あと少し、まだ気は許せない」と考えていた。確かにこれで「はやぶさ」は地球に向かう軌道に乗った。しかし、地球のどこに帰還カプセルを落としてもいいというわけではない。カプセルはオーストラリアの中央、ウーメラ砂漠に落とすことになっている。そのためには数回、軌道の微修正が必要だ。
「はやぶさ」には軌道修正用の化学推進スラスターが装備されていたが、イトカワへのタッチダウンの結果使えなくなってしまっていた。軌道修正にも本来軌道修正用ではないイオンエンジンを使うしかない。あと少し、それも今まで以上に微妙で正確さを必要とする仕事をしてもらわなければならない。
彼の仕事はまだ終わってはいない。
地球帰還へ向けて
- Q:
-
まず、帰還のための軌道制御が一段落した今の気持ちを
- 白川:
-
報道などでは、もう「はやぶさ」の軌道制御は終わって問題なく地球へ帰還できるように書かれていますが、まだまだ微調整は続くんです。これからの微調整の結果が全て正常な帰還に繋がるので、今まで以上に慎重に運用する必要があります。ここまで来るともう後戻りは出来ませんからね。
姿勢をコントロールするリアクション・ホイールが3基のうち2基が故障していますし、通常の姿勢をコントロールする化学推進スラスターはもう使えません。だから、姿勢を安定させながら正しく軌道をコントロールするのはかなり高度な技が必要となります。 - Q:
-
あと何回ぐらい軌道を制御するのですか?
- 白川:
-
イオンエンジンを噴いては止め、軌道を精密に計測して、次の噴射でどれぐらい軌道に修正をかけるかを決めていきます。だから厳密に何回やりますとは言えません。噴射の結果次第です。
- Q:
-
白川さんと「はやぶさ」の関わりはいつからなのですか。また「はやぶさ」での白川さんの主なお仕事はどのようなものなのでしょう。
- 白川:
-
1988年に入社してすぐ、月スイングバイを行った「ひてん」という探査機を担当しました。この探査機でスイングバイや月周回、月面衝突までさまざまな軌道制御を実地で学ぶことが出来てすごく自信がつきました。その後プロジェクトとしては中断しましたがLUNAR-Aという月探査機にも関わり、その後が「はやぶさ」です。開発当時に愛称は無くて「MUSES-C」と呼ばれていました。
「はやぶさ」開発では、主に搭載されたコンピュータ用の姿勢や軌道をコントロールするソフトウエアを担当してきました。電気を使うイオンエンジンの運用も、小惑星へのタッチダウンも初めての経験でしたので、なかなか苦労しました。
開発だけではなく、打ち上げ後も、かなりな期間、実際に「はやぶさ」の運用に携わっています。 - Q:
-
というと、2003年5月に始まって7年にもなりますが、最初の頃の「はやぶさ」との関わり方と、今の関わり方で心境の違いのようなものはありますか?
- 白川:
-
あまり長かったという印象はないです。2003年の打ち上げから、2005年の小惑星イトカワ接近までは、自分の受け持っているサブシステムの担当としての役割に徹していたような気がします。変わったのは2005年秋のイトカワへのタッチダウンからでしょうか。
- Q:
-
何があって、どう変わったんでしょうか。
- 白川:
-
あまりにも想定外のことが多く起こったので、これが自分の仕事の範囲だなんて言っておられなくなったんですね、チームが皆で「はやぶさ」の全てを面倒見るというか…
2007年に帰還運用に入ってからは、地球と「はやぶさ」間の距離が遠かった期間も長くて、遠い時は「8bps」1秒間に8ビット(1文字相当)しか情報が来ない時期がありました。必要なデータを得るのに何時間もかかってしまう、そんな運用です。しかも往復に電波でも40分もかかるという…
このとき思いました、自分はゆっくり燃える焚き火を見守る「番人」ではないかと。 - Q:
-
番人ですか。
- 白川:
-
そう、番人です。長い長い時間をかけて、自分は「はやぶさ」の全てと対話してきたような気がします。だから7年間を振り返っても、長いとは思えません。
いくつもの苦難を乗り越えて
取材・執筆文 松浦 晋也
- Q:
-
運用をしている中で一番印象に残ったことは
- 白川:
-
やはり2005年11月に2回行った「タッチダウン」でしょうか。何しろあれは想定外の出来事の連続でした。そもそもイトカワは予想外の表面形状でしたし、探査機にはすでにいくつもの異常が発生していました。開発当初に想定していた完全自律的な運用は困難になっていました。
そんな中で一番力を発揮したのは、想定外の出来事にぶつかった時に、人が介在して、要所要所で判断しながら運用を進めるというやり方そのものだったと思います。本当にあの時は宇宙航空研究開発機構(JAXA)、NECの運用チームみなで協力して日々新たな運用方式を編み出していきました。機械にはできない、人間の力のようなものを実感しましたね。
そうそう、2005年11月のタッチダウンの後に、はやぶさが姿勢を見失い、電力も無くなって行方不明になった期間がありました。2006年1月の終わりに、ビーコン電波が捕まったときは、「えっ!もう戻ってきたの」と驚いたこともあります。
再捕捉にはもっと時間がかかると思っていましたから、しばらく運用室に来ることもないかなと、そう思って荷物を片付けに来たまさにその日でした。「はやぶさからのビーコンらしい!」という声が上がったんですよ。 - Q:
-
2009年11月のイオンエンジン異常発生時の心境はどんなものだったでしょうか。4基のイオンエンジンのうちAとBの2基を使って1基分の運転を行い、しかも実際に動いた時にはどのような感想を持ちましたか。
- 白川:
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この時は、こういった事態に備えて、電源系にバイパス回路を確保しておいたイオンエンジンの設計者に脱帽という感じでした。「これで救われた」「はやぶさは強運だ」と思った瞬間でした。本当にこの探査機は、わずか500kgちょいの重量しかないのにタフで強運なんです。
- Q:
-
あと少しの運用となりましたけれど、これから一番注力したい点は何でしょう。
- 白川:
-
何と言っても正確な軌道制御をおこなって、正しく「はやぶさ」を地球に導くことです。
- Q:
-
カプセルが戻ったら、どんな気持ちになると思いますか。
- 白川:
-
カプセルが戻ったらですか?「はやぶさ、ご苦労様」ですかねえ。
月並みですが。(笑) - Q:
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7年もの長いミッションをやり遂げて、これから何をしたいと思いますか。
- 白川:
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まだ考えてもいませんが、やはり「はやぶさの後継機」をやりたいです。自分がこの7年間で得たものや、作り上げたさまざまなソフトウエア・ツールを若い人達へ伝えていきたいと思っています。でも、なかなか文書で伝えられないものもあるわけで、それは、実際の運用を通じて伝える場を作りたいですね。
JAXA相模原キャンパス宇宙研究所のロビーには「はやぶさ実物大モデル」が置いてある。関係者は時折、その傍らで、じっとモデルを見つめる白川に出会うことがあるという。
「はやぶさの姿勢を変える時など、この模型を見ながら実物がこう動くというイメージを確認するんです」
2010年3月末現在、日本から見ると、「はやぶさ」は午後3時に東の地平から上り、夜中に西の地平に没する位置にあり、まっすぐ地球に向かってきている。それは白川の勤務時間と一致する。
白川と「はやぶさ」の対話は、地球突入数時間前に帰還カプセルが本体から分離されるまで続く。
「天」の彼方にいる探査機と、「地」との橋渡し役として。
2010年3月29日 インタビュー
NEC航空宇宙システム
宇宙・情報システム事業部 第三技術部
エキスパートエンジニア 白川 健一
深宇宙探査機(はやぶさ、かぐや等)の姿勢軌道制御系を担当。「はやぶさ」では、開発初期から現在の運用に至るまでを一貫して担当。現在に至る。