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第2話「立派に育って『はやぶさ』は帰ってくる」
取材・執筆文 松浦 晋也
インタビュー 2010年5月20日
システムインテグレーターとして探査機を開発したNECのプロジェクト・マネージャー萩野慎二は、NECの技術陣を率いて、宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究所(JAXA / ISAS)川口淳一郎教授の強力なリーダシップのもと、各大学/研究所の要求に耳を傾け、他のメーカーとも協力して問題の解決策を模索し、矛盾する様々な要素をまとめ上げ、「はやぶさ」という世界にたったひとつの探査機を作り上げた。開発が始まった1997年から、14年。彼は「はやぶさ」の打ち上げを見送り、運用に参加した。
「はやぶさ」を知り抜いた男は、今また、運用チームの一員として最後の運用に参加している。はやぶさの再突入カプセルを、無事オーストラリアのウーメラに降下させるために。
すべてをゼロから設計した
- Q:
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お仕事の内容について教えてください。
- 萩野:
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1985年の入社からずっと、私は衛星のシステム設計を担当してきました。
- Q:
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システム設計というのはどんな仕事なのでしょう。
- 萩野:
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衛星全体に目配りしながら、個々の要素をすり合わせてひとつの衛星にまとめ上げていく仕事です。システム・マネージャーを経て、「はやぶさ」で初めてプロジェクト・マネージャーを担当しました。
- Q:
-
「はやぶさ」の開発はどんなものでしたか。
- 萩野:
-
そりゃもう大変でした。普通、新しい衛星を開発する場合は、電源とか姿勢制御といった基本的な部分、衛星用語ではバス機器といいますが、その部分は以前の衛星で使った設計を継承します。今までに宇宙で使ったことがある設計は信頼できますから、その上に新しい観測機器を搭載することで、信頼性を確保するわけです。
ところが「はやぶさ」の場合は、すべてが新しかったんです。ゼロから設計しなくちゃいけない。観測機器はもちろんのこと、電源系、姿勢制御系、通信系、なにもかもを新しくしないと要求を満足させることができませんでした。しかもサンプラー・ホーンや再突入カプセルといった他の衛星にはない要素も詰め込んで、なおかつM-Vロケット(JAXAのページに移動します)で打ち上げることができるよう510kg以下に収める必要がありました。毎日が議論の連続でした。
- Q:
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打ち上げの時の気持ちはどんなものだったのでしょうか。
- 萩野:
-
あの時は内之浦で第1可視の運用に立ち会いました。第1可視というのは、打ち上げ後最初に探査機からの電波を受信して行う運用です。衛星からの電波が入ると、それまでの苦労を思い出して感無量になったものです。ところが、「はやぶさ」では自分はプロジェクト・マネージャーの立場になったので、これからまだまだ続くプロジェクトに対し「感無量にはなれないぞ」という気分でした。チームメンバーには感極まって泣いていた者もいましたが、自分は泣いちゃいけないと思っていました。
- Q:
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プロマネになったことで感じ方が変わったのですか。
- 萩野:
-
以前は、とにかく自分が色々と手を下していますから戦々恐々です。「ヘマしていないだろうな」って。でもプロマネの立場になってからは働いてくれた皆を信用して仕事をしていますので、「上がったら動かないはずはない」と思っていました。チームへの信頼ですね、その意味では自分がやっていた頃よりも安心できましたね。
生みの親がいて育ての親がいる
- Q:
-
2005年11月のタッチダウン運用の時はどうでしたか。
- 萩野:
-
11月のタッチダウン運用は、リハーサルから2回の本番まで何度も繰り返しましたね。
川口先生の見切りは本当にすごくて、「何日後にやる」といって、できるか出来ないか、ぎりぎりの要求を次々に出してくるんです。だから運用側も必死になって対応し、きちんとやり遂げました。あの時の運用チームは本当に凄かったと思います。 - Q:
-
続く12月の通信途絶ではどうだったのでしょう。
- 萩野:
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もう「あれよあれよ」という感じでした。自分が何をしていたか、何を考えていたか全く覚えていません。ただ途絶直後から、「これからどうしようか」と考えていました。おそらく姿勢が崩れただけなのだから、理屈の上では太陽電池パドルに光が当たるようになれば生き返るはずなんです。
「はやぶさ」は、パドルの付け方を工夫してあって、どんなに姿勢が崩れても、最終的には太陽電池パドルに垂直な軸周りの回転に収束するように設計されていました。だから、いずれ姿勢は主軸周りのスピン安定になり、太陽光がパドルに当たれば通信が回復するはずだと。
- Q:
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でも、姿勢が崩れると「はやぶさ」が冷え切ってしまいますから、壊れてしまう可能性もあったのではないですか。
- 萩野:
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もちろんその可能性もありますが、そうと限ったわけでもないんですよ。
「はやぶさ」はとても冷えやすい設計になっているのです。タッチダウンする時は太陽の方向から小惑星に近づいていくので、小惑星表面からの照り返しを受けてどんどん温度が上がっていくのです。だから、それに耐えるように、通常は我慢できる範囲で十分温度が下がる設計にしてあって、下がりすぎるとヒーターで温度を保つようになっています。
そういうわけで、アンテナのある面を除く他の面には放熱をする場所があり、いつもはそこから熱を逃がしているんです。姿勢が崩れて太陽がアンテナのある面から当たらなくなると、逆にそれまでは太陽が当たらなかった放熱面にも太陽光が当たるようになって熱が入ってきます。「はやぶさ」は太陽に向けて姿勢を保っている時が一番冷えやすく、太陽が真上から当たらなくなるとかえって冷えにくいのです。
音信不通になった時は、JAXAで確率を計算した結果、翌2007年春までに通信復帰の可能性が70%あるということでした。自分もいずれどこかの時期に太陽電池に太陽が当たるはずなので、いずれ通信は回復する可能性はあると思っていました。 - Q:
-
萩野さんにとって、「はやぶさ」の開発と運用はどんな仕事でしたか。
- 萩野:
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開発時は苦労もありましたけれども、一面ではやりやすかったです。なぜなら、「はやぶさ」はテーマがはっきりしていましたから。何をすべきかがはっきりと見えていて、そこに向けて、計画に参加したメーカー各社がJAXAのもとに一致協力して高いハードルをクリアしていくことができました。
「はやぶさ」の運用も大変難しいものでしたが、運用チームがどんどん進化していきました。問題が起きるたびに人が育っていったんです。私の仕事は彼らをサポートすることでした。「その人でないとできない」ことが多くて、なかなか汎用のスキルにはならないので。企業としては困った部分もありますがね。(笑) - Q:
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萩野さんにとって、「はやぶさ」は何でしたか。
- 萩野:
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ありきたりに思われるかも知れませんが、自分にとって「はやぶさ」は子供のようなものです。作って打ち上げるまでは、開発チームが頑張って育てましたが、打ち上がった後は運用チームが使いこなしていきました。思いもよらない使い方を考え出して、何度もの窮地を切り抜けてきました。それは「はやぶさ」が育ったということなんだと思います。
「はやぶさ」には生みの親がいて育ての親がいるんですよ。帰ってくる「はやぶさ」は、もう立派に育った「はやぶさ」なんです。
本格的な開発が始まった1997年から、NECのプロジェクト・マネージャーとして、JAXA/ISASの川口淳一郎教授と共に、萩野は「はやぶさ」を作り上げた。その萩野は、「はやぶさ」帰還にあたって、最後の日々の運用チームをまとめて、再突入カプセルをオーストラリア・ウーメラに導こうとしている。「自分が運用に参加していると、やっぱり昔みたいに『自分がヘマしないようにしないといけない』と考えますね。ミスなく、最後のカプセル再突入・回収までやりきりたいです」
「はやぶさ」は今、秒速4kmで地球に近づいている
帰還まであと2日
取材・執筆文 松浦晋也(2010年6月11日公開)
関連リンク
NEC
宇宙システム事業部 宇宙システム部
マネージャー 萩野 慎二
1985年入社。科学衛星のシステム設計を21年行い、現在は「はやぶさ」をはじめ科学衛星のプロジェクトのマネージメント。