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NECの宇宙技術開発の歴史をご紹介

2010年6月13日。小惑星探査機「はやぶさ」が、7年におよぶ約60億キロの宇宙の旅を終え、地球へ帰還しました。映画にもなったこの世界的な偉業は、多くの人々に感銘を与え、みなさんの記憶にも新しいところではないかと思います。
この「はやぶさ」によって、NECの宇宙技術は一気に知名度を高めたと言っても言い過ぎではないかも知れません。NECは「はやぶさ」のシステムインテグレータとして、開発当初からこのプロジェクトに携わり、その成功に大きく貢献しました。

小惑星探査機「はやぶさ」の開発と成果

小惑星探査機「はやぶさ」は、月以遠の地球圏外の天体に着陸し、サンプルを地球に持ち帰った世界初の小惑星探査機です。NECは、「はやぶさ」のシステムインテグレータとして、システム全体の設計、製作、試験、運用を担当し、またバス機器やイオンエンジンなど多くの搭載機器も担当しました。

萩野慎二(NEC技報 Vol.64 No.1 2011年3月)

「はやぶさ」だけではありません。
近年話題になったものだけでも、国際宇宙ステーションの「きぼう」日本実験棟や、日本の探査機として初めて地球以外の惑星・金星の軌道に入ることに成功した内惑星探査機「あかつき」など、日本の宇宙開発の随所でNECの技術が重要な役割を果たしています。

国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう(JEM)」の開発

日本は、国際宇宙ステーションの「きぼう」日本実験棟を完成させて、初の有人施設を開発しました。NECは衛星間通信システムとロボットアームの2つのシステムと、管制制御装置、各種実験装置、運用管制システムなどを担当しました。

桑尾 文博・大塚 聡子・田中 剛彦・熊谷 博貴・竹貝 朋樹・清水 基充
(NEC技報 Vol.64 No.1 2011年3月)

金星探査機「あかつき」の開発

2010年5月21日に打ち上げに成功した日本初の内惑星探査機「あかつき」は、金星周回軌道投入には失敗したものの、現在も、6年後のリベンジを目指して航行中です。本稿では、「あかつき」探査機システム設計と、個々の技術について紹介します。

大島 武・佐々木 得人
(NEC技報 Vol.64 No.1 2011年3月)

※2015年12月9日、「6年後のリベンジ」は見事に果たされました。

NECの宇宙技術開発の始まり

当時のNEC技術情報誌「NEC」No.36(1958年2月)の表紙

これら数々の成果は、もちろん一日にして成ったわけではありません。
その最初の一歩は、1950年代にまでさかのぼります。
当時、「国際地球観測年(IGY:International Geophysical Year)」という国際科学研究プロジェクトが提起され、1957年7月1日より、世界各国によって地球に関するさまざまな観測が行われるようになります。これを契機としてアメリカとソ連(当時)による宇宙開発競争が始まるわけですが、日本でもIGYに参加しようという気運が高まりを見せており、それに呼応してロケットの開発が進められていました。その中心となったのは、東京大学生産技術研究所(当時)の糸川英夫博士、そう、あの「はやぶさ」が到達した小惑星「イトカワ」の名前の由来となった人物です。
NECは1956年、糸川博士によって命名された「カッパ(ギリシャ文字のKを意味する)ロケット」に搭載するテレメトリ*送受信装置を、東京大学生産技術研究所に納入しています。これが、宇宙へ向けて飛び立った最初のNEC製品となりました。

  • テレメトリ (telemetry):対象から遠く離れた地点から様々な観測を行い、そのデータを取得する技術。

昭和32年7月1日より始まる国際地球観測年に観測飛翔を計画されているカッパーロケットに搭載して最高々度150kmまでのテレメータリングが可能な送受信機の試作を東京大学生産技術研究所より依頼されて、試作を進め、これを先づ試験飛翔用のカッパー128J-T4に搭載し、略々満足すべき結果を得ました。この飛翔実験により改善すべき問題点を把握し、さらに改造を加えた送信機をカッパーⅢ型およびⅣ型に搭載して飛翔実験を実施しましたので、送受信機と試験結果についてその概要を御報告いたします。

大井克彦、山下不二雄、高橋健一、佐伯昭雄
(NEC No.36 1958年2月)

日本の宇宙開発の歴史と常に共に歩んできたNEC

こうして始まったNECの宇宙通信技術の開発は、1964年、世界的に意義のある大きな成果として結実します。
この年、アジアで初となる第18回オリンピック競技大会が東京で開催されます。日本国民が待ち望んだこの東京オリンピックは、日本が戦後の復興を成し遂げ、国際社会への復帰を果たしたことを世界に示しましたが、それと同時に、競技の映像が初めて通信衛星によって世界へ届けられたことでも一時代を画する大会となりました。世界中の人々がテレビでオリンピックを観戦するのは今では当たり前のことになりましたが、その最初の成功をNECの宇宙通信技術が支えていたのです。

東京オリンピック大会のシンコム3号によるテレビ世界中継はみごとに成功しました。テレビ電波を送る鹿島地上局のパラボラアンテナ、駆動装置、送信装置、衛星を捉える複雑な計算をするNEAC電子計算機、これら宇宙通信システムのすべてがNEC日本電気の製品です。更に、音声を送る太平洋横断ケーブルにも当社の製品が活躍いたしました。オリンピックのもようは、このように宇宙通信システムにより、いっきょにアメリカのポイント・マグー地上局に届けられ、全米へ、カナダへ、さらにヨーロッパへと届けられました。

NEC No.68の誌面より(1964年12月)
  • 現在、NECは東京2020ゴールドパートナーとして、パブリックセーフティ先進製品、ネットワーク製品のカテゴリーで東京2020大会を応援しています。

その後もNECの宇宙技術開発は、日本の宇宙開発の歴史と共に進化を遂げていきます。
1970年、日本初となる人工衛星がNECによって東京大学に納入されます。この衛星は、打ち上げ成功後、打ち上げ基地があった大隅半島の名に因んで「おおすみ」と命名されました。この成功により、日本はソ連、アメリカ、フランスに次いで、世界で4番目の人工衛星打ち上げ国になったのです。
さらに1977年、日本初となる実用静止気象衛星「GMS(Geostationary Meteorological Satellite)」がアメリカのケープカナベラル空軍基地から打ち上げられます。その後、静止軌道投入に成功したこの衛星は「ひまわり」と名付けられました。今や毎日の天気予報などで誰もがその名を知っているこの衛星、およびその追跡管制システムの開発においても、NECは中心的な役割を果たしました。
しかし、これらは代表的な一例にしか過ぎません。日本の宇宙開発の歴史において、NECはその創生期から、数多くの重要な実績を刻んできたことを、次の論文によって見ることができます。

NECの宇宙開発の歴史

NECは早い時期から宇宙開発に挑戦してきました。日本最初の人工衛星「おおすみ」、日本最初の実利用衛星「ひまわり」、日本最初の宇宙探査機「さきがけ」など、今までに日本が成功させた40機の衛星のうち23機までをシステムレベルで製造し、他の衛星にも6機を除いてなんらかの機器を供給する実績をあげています。

小野英男
(NEC技報 Vol.41 No.4 1988年4月)

宇宙への挑戦の長い道のりの途上には、数々の失敗があったこともまた事実です。そうした障壁に突き当たりながら、それでもNECの技術者たちが飽くなき挑戦をし続けてきたことが、今日までの成果につながったと言えるでしょう。

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