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その重要性と環境問題にも貢献する未来展望

量子アニーリング理論の第一人者が語る

量子アニーリング方式の発展に大きく寄与したガブリエル・アプリ博士に、その魅力や将来展望をお伺いするインタビュー。前編では、博士の研究領域や、世界で初めて量子アニーリングマシンを商用化したD-ウェイブに与えた影響、そして、古典的なコンピュータに対する量子コンピュータの優位性などに関して語っていただきました。今回の後編では、量子アニーリング自体についてわかりやすく説明していただくと共に、シミュレーテッド・アニーリングとの違い、量子コンピューティングの将来展望、若い研究者たちへのメッセージなどをご紹介します。

山にトンネルを掘って近道するような量子アニーリング

Q1量子アニーリングについて簡単にご説明いただけますか?
A1

量子アニーリングを説明する前に、シミュレーテッド・アニーリングの話をしておきましょう。私が、ベル研究所で働き始めたときのことです。シミュレーテッド・アニーリングに関して書かれた、スコット・カークパトリック(および、彼の同僚のベッキとジェラット)による有名な論文を読みました。
たとえば、巡回セールスマン問題のような組合せ最適化問題について考えてみます。これは、セールスマンが色々な町を巡って顧客に会う際の最適ルートは何かを見つけ出すというものです。実問題に当てはめると、当然ながら、移動のための交通費や出張手当、時間、ホテルに泊まる宿泊費といった旅費がかかるため、すべての町に出向き、すべての顧客に会っても最小限のコストで済むようなルートを見つけ出すことは、セールスマンの雇い主のビジネスにとって意味があります。しかし、結果が数多くの要素に左右されるこのような問題は、古典的なコンピュータ上の従来のアルゴリズムでは迅速に解くことができません。
この問題に対するアプローチを考えるにあたり、カークパトリックらは、熱く沸き立ったスープが冷えるような自然現象にヒントを得ました。スープは沸点以上の温度ではすべての具がランダムに分布していますが、冷却過程で最も内部エネルギーの低い状態に落ち着くにつれて、底のほうに(水よりも密度が高い)ヌードルなどの具が溜まり、表面に上澄が集まる、ことに着目しました。様々な成分がミックスされたスープのように1つの複雑なシステムにおける熱の冷却プロセスと、巡回セールスマンのような問題が、ある意味で似ていることに気づいたのです。
そこで、組合せ最適化問題は、古典的なコンピュータ上における熱の冷却のシミュレーションと同じ手法によって解けるのではないかという考えが生まれました。これが、シミュレーテッド・アニーリングです。
これに対して、先に触れたファインマンの考えは、熱冷却を量子冷却で置き換えられる可能性があることを示唆していました。
スープの例では、一度、温めた状態で具の様々な配置をサンプリングし、その後のゆっくりとした冷却過程において、周辺よりも内部エネルギーが低い状態が選択されると、それがシステム全体の最低エネルギー状態に十分近いものと見なせるわけです。一方、組合せ最適化問題では、熱揺らぎ(*5)の代わりに量子揺らぎ(*6)を与え、そのシステムにおいて考えうる組み合わせをサンプリングした後に量子揺らぎを取り除きます。すると、自然にシステムが平衡状態となってエネルギー状態が最小化し、それが正しい組み合わせに十分近いものになると考えられるのです。このように、システムが自然に平衡状態になるとエネルギーが最小化するという考えが、量子アニーリングの基本的なコンセプトであるといえます。

  • (*5)
    熱揺らぎ:統計力学の用語で、平衡にある系において、平均状態からのランダムなずれのこと。 温度が高くなるにつれて熱揺らぎは大きくなる。
  • (*6)
    量子揺らぎ:量子物理学の用語で、空間のある点におけるエネルギーの一時的な変化のこと。

Q2量子アニーリングとシミュレーテッド・アニーリングの違いについて、もう少し詳しくご説明ください。
A2

スイスにも日本にも険しい山がありますね。いくつかの峰があり、谷があるような地形を考えてみます。そして、この端に位置する谷から、どこかの峰の向こう側の、最も低い位置にある谷に行きたいとしましょう。その谷は、エネルギーの状態が最小だということを意味します。
熱して冷ます状態をシミュレートするシミュレーテッド・アニーリングは、たとえていうならハイキングです。その軌跡は、まず最初の峰に上り、それを越えて次の谷に降りるというものになります。そして、また次の峰を越えて、その先にある谷に降りることを繰り返すうちに、どこかで最も低い谷にたどり着くわけです。
一方で、量子アニーリングの軌跡は、谷と谷とを直接結ぶトンネルを通過して、一気に最も低い谷へと出てしまうわけですね。このトンネリングメカニズムが、量子アニーリングの大きな特徴となっています。

Q3今から20年も前に、量子アニーリングに期待された理由についてお聞かせください。
A3

それは、実際の実験を通じて得られた知見です。量子冷却に基づく量子アニーリングでは、熱冷却を応用したシミュレーテッド・アニーリングとは異なる結果が得られました。それは、より鋭い谷間において最小値を選択しやすいように思えたのです。このことが、(険しい峰と谷で構成された地形にたとえられるような)特定の組合せ最適化問題に対して、量子アニーリングのほうが古典的アニーリングよりも効率よく機能するという示唆を与えてくれました。

量子コンピューティングによって変わる世界

Q1量子アニーリングの将来的な可能性、展望など教えていただけますでしょうか?
A1

量子アニーリングの主要な応用分野は、量子物性のシミュレーションになるでしょう。それは、ハードウェアで達成可能なデコヒーレンス時間とエンタングルメント(*7)の長さが、両方とも適切に長い場合に有効です。化学反応や生物化学分野の現象は基本的に量子物性から導き出されるものなので、たとえば薬学のように、何らかの目的のために化学合成を行う場合の最適解を求める場合などに応用できます。
一方では、量子アニーリングマシンは、古典的なコンピュータと比べて劇的な処理速度の向上が見込めないのではないかという意見もあり、この論争は今も続いています。ただし、そのような見方をする人々も、ある種の最適化問題においては、古典的なコンピュータ上で量子アニーリングを適用することで良い結果が得られるという(一貫性のある)考えを支持していたりするのですが…。先の、峰と谷の説明でたとえると、山々が、なだらかなドイツの丘のようなものだったらどうなのか、ということです。たとえば、特定の民間投資のポートフォリオや政治的に安定した国家の国債の利回り予測的なものは、このなだらかな山に相当するかもしれません。その場合、古典的なハイキングのほうが、手軽に目的の谷まで行ける可能性もあります。
それと関連して、どのような問題が量子アニーリングや古典的なシミュレーテッド・アニーリング、およびゲート方式の量子コンピューティングにそれぞれ向いているのかということは、依然として科学上の課題となっています。桁の大きな素因数分解については、ゲート方式の量子コンピューティングが依然として優位と考えられていますが、これも数学的に証明されたものではなく、今も研究が続いている状態です。過去には、複数の数学的予想の証明に200年以上かかった例もあるので、これも人類の挑戦の1つかもしれません。

  • (*7)
    デコヒーレンス時間とエンタングルメント:それぞれ、時間と空間の量子性の測定に用いられる専門用語。

Q2量子コンピューティングによって、世の中はどのように変わっていくのでしょうか?
A2

データセキュリティの考え方や、化学あるいは分子生物学に見られる量子物性に基づいた学問に大きな影響をもたらすと考えられます。化学的、生物化学的なシミュレーションがこれまでよりも精密に行えるようになるので、世の中にも大きな変化が訪れるでしょう。
また、先にも触れたように、電子的あるいは熱的に大きな負荷を生じない真の量子コンピュータが完成すれば、IT関連のエネルギー消費やCO2排出量の問題も解決されることになり、この点でも大きなインパクトを与えるはずです。

若き研究者たちへの期待

Q1量子コンピューティングは非常に期待されている分野ですが、この領域に挑まれている若い研究者たちへのメッセージをお願いします。
A1

私からのアドバイスは、まず、「この分野における勝者的な立場のテクノロジーはまだ決まっていない」ということを念頭において欲しい、というものです。
たとえば、量子コンピューティングの世界では、伝統的な半導体領域からのアプローチとして、私自身も取り組んでいる電子スピンを利用するプラットフォームと、超電導システム内のジョセフソン効果を利用するものの2つがあります。
また、それらとは別に、イオン・トラップやアトム・トラップ(*8)を利用する原子物理学的なアプローチも行われていますが、固体素子や原子物理学を起源として汎用量子コンピュータの実現を目指す、すべてのゲート方式のアプローチは多大な困難に直面しているように見えます。
したがって、若い研究者たちにとっては、どのプラットフォームもやりがいがあり、また興味深いものであるといえるでしょう。
また、エネルギー消費についても念頭において欲しいですね。最終的に、人類に対する量子コンピュータの最大の貢献は、コンピューティングの効率を高めることにあるからです。温室効果ガスを減らすためにIT業界ができることは、そこにあります。これが、私からのキーメッセージです。

  • (*8)
    イオン・トラップやアトム・トラップ:原子をイオン化して冷却することで動きを止め、レーザーで操作を行うタイプの量子コンピュータの方式。その状態にあるイオン化された原子のことを、「トラップト・アトム」もしくは「トラップト・イオン」と呼ぶ。

Q2量子コンピューティングに関する報道や期待は、過熱しすぎていると見る向きがあるようですがいかがでしょうか?
A2

全般的にいって、私は、もうそういう時期は過ぎたと考えています。最新のレポートでは、真の成功と呼べるようになるまでに、まだ時間がかかることを認めて、適度な期待感を持つような論調に変わってきました。それは良いことだと感じる一方で、私自身は、もっと注目されるべき分野だとは思います。実際に研究を進めるには、様々な才能や支援や資金が必要です。そのために関心が集まることは良いことだと思いますので、量子コンピューティングに大きな期待が集まってくれるほうが嬉しいですね。
最後に、量子アニーリングに関する最初の一連の論文は、私一人だけではなく、シカゴ大学の2名の物理学者、および、プロジェクトの途中でシカゴ大学からNECの北米研究所に移籍した、もう1名の物理学者と共に研究を行った成果でした。それぞれ異なる能力を持った人たちが力を合わせて取り組むことで、技術上の難題を解決するうえで最大の進歩が可能となったことを、付け加えておきたいと思います。

(取材・文/大谷 和利)

(インタビュー:2020年2月3日)