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第4回 看板を背負う男達の自負

あの日、筑波の総合環境試験棟は大きな揺れに見舞われた。何時までも続く大きな揺れの中、「しずく」試験に携わっていた全ての関係者の胸に去来する想いは、「衛星は大丈夫か?」それだけだった。揺れが収まったその後の試験棟では・・・・・
衛星組み立てのリーダー唐土宏行、検査のリーダー津元憲聡、二人のキーマンはこのとき筑波から1000kmも離れた種子島宇宙センターのロケット組立棟にいた。筑波からの一報、緊張が走る。しかし種子島からはすぐに筑波に戻ることは出来ない。焦りがつのる。
「現場の作業者に任せるしかない・・・彼らを信じよう」
3月16日、5日かかってようやく筑波の試験棟に駆けつけた彼らが見たものは、震災当日そこに居合わせた技術者たちによる懸命に衛星を守る作業の成果だった。
そこから衛星を元の状態に戻す必死の作業が始まった。これまで経験したことの無い作業の連続。
衛星がその完成に近い形で遭遇した初めての巨大地震、この未曾有の状況の中、何とか衛星を復旧させて、スケジュール通りに打ち上げを達成した技術者達の苦闘の日々。
唐土 宏行
「しずく」組立リーダー

「全員で衛星を守れ」
- 小笠原:
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今回の「しずく」関係者インタビューで、多くの方が口にするあの去年3月の東日本大震災、完成に近い試験中の衛星が始めて遭遇した大地震、みなさんのように製造/検査に関わった方は現場で大変だったでしょう?
- 唐土:
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実はその当日、3月11日、私たち2名は、筑波から1000kmも離れた種子島宇宙センターにいたのです。それも、まさに「しずく」がロケット先端に載せられるその場所、ロケット組立棟の中での調査のまっ最中でした。
大地震発生の情報は筑波からの一報でした。あの日は会社よりも家庭よりも筑波との連絡が優先でした。その電話で衛星本体は無事なこと、試験棟の壁が崩れたり、全電源が落ちたりしていることを聞きました。筑波の現場には、NEC「しずく」システムのメンバーや、製造/検査の“腕っこき”たちがいるので当座は大丈夫とは思いながらも、一刻も早く現場に駆けつけたい思いでいっぱいでした。
とはいえ、交通手段の問題もあり筑波にはなかなかたどり着けません。私が筑波の衛星試験現場に着いたのは3月16日、地震から5日もたってからのことでした。
現地入りして様々な人に状況を聞くと、まず衛星を保護するためにビニールシートでぐるぐる巻きにして、横倒しで試験最中だったのを直立させていました。その後、一番安全なエリアに移動を完了してくれていたのです。当日は「しずく」の試験チーム以外にも様々な機器の試験チームが試験棟にいて、その人たちが各自の担当を越えて、当日そこにあったもっとも大きな「しずく」を保護するために働いてくれたと聞きました。本当に仲間はありがたいと、そう思いました。
でもこれは始まりでした。ここから2ヶ月にも及ぶ復旧作業が始まりました。正直、打ち上げがどうなるんだろう?もう上がらないじゃないかという不安に襲われたこともありました。「しずく」だけじゃなく筑波宇宙センターの全体(日本全体だったかもしれない)が混乱していましたから。でも、そうは言ってられません、私たちはまず衛星が大丈夫かを確認する作業から着手しました。「しずく」試験が行われた 筑波、総合環境試験棟外観
(一般公開時に撮影 提供:大塚実) - 小笠原:
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こういった場合のマニュアルは・・・
- 唐土:
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もちろん震災時のマニュアルは無いです。衛星輸送、清掃といった、これまでの衛星で積み上げてきた様々な経験や、既存のマニュアルを総動員して対応を進めることにしました。とにかく何をどういった手順で進めるか、その調整は大変でしたね。4月に、筑波宇宙センターの中の別な棟(電波試験棟)に運んで、そこで作業を進めることになりました。
- 津元:
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震災前までに一部は終わっていた衛星の総合動作を再度すべて確認しました。その後は、打ち上げまでのスケジュールを日々見合いながらの試験が続きました。
- 小笠原:
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良くこれだけのことをしてスケジュールが守れましたね?
- 津元:
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それは大変でしたよ、現場に随分無理をさせたかな、人手が足らなくて随分あちこちから人を集めて作業したこともありました。
- 小笠原:
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震災から、打ち上げまでの「しずく」の1年は、正に「全員で衛星を守りきった」1年だったといえます。
押さえるべきところは押さえた
- 小笠原:
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話の順番が変ってしまいましたが、唐土さん、津元さんのこれまでの経歴はどのようなものですか?
- 唐土:
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入社は1985年です。放送衛星「ゆり3号」を手始めに、「みどり」のサブシステム、「かけはし」「つばさ」「かぐや」といった衛星の組み立てを主に担当してきました。入社した時には当時注目の的であった携帯電話に興味があったのですが、配属された宇宙事業部で「ゆり3号」を担当、長いことアメリカのGE社で作業していくうちにすっかり宇宙に “はまり” ましたね。
- 津元:
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私は1986年に、スペース・レーザ通信開発本部というところに配属されました。ここでは主に衛星通信装置を担当していました。衛星の通信装置はかなりの台数を作るものなので、検査の自動化が必須で、そのための測定装置やソフトウエアを作っていました。通信衛星や放送衛星の試験に携わり、「かけはし」では通信系機器の担当でした。2002年打ち上げの技術試験衛星「つばさ」でここにいる唐土と初めてコンビを組みました。「かぐや」「きずな」を経て、2008年から「しずく」を担当しました。
- 小笠原:
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先ほど、震災後の「しずく」復旧作業のことをお聞きしましたが、「しずく」の組み立て、検査に関して他に難しかった点はありますか?
衛星試験風景(筑波 総合環境試験棟にて)

高所台車の上で試験中

衛星を横転した状態で試験中
- 唐土:
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「しずく」が他の衛星と全く異なることは無いのですが、これまでの衛星の設計を活かして、今後の衛星の標準バスを目指していましたので、衛星の設計だけでなく、組み立てや試験の治具や工具も標準化していきました。
衛星を載せる台車なども、作業者が作業しやすい足の置き場や、回転機構など改良を施しました。衛星を横転する事の出来る台車があるのですが、「しずく」は形状の制約から台車とつなぐ方式がボルト止めでは無く、バンド締めなのです。これには参りました。沢山のボルトで締めていると安心感があるのですが、バンドなので締め方も含めて細心の気配りが必要でした。とはいえ、衛星を横転させるときは正直私でも怖かったですね。(笑) - 小笠原:
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NECの川口プロジェクトマネージャからは、「これでもかと言うほどの徹底的な試験をやった。」と聞いていますが、それだけやると検査の方は大変だったのではないですか?
- 津元:
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そうですね、何しろ試験項目が膨大ですから、作業者をいかに配置して効率よく検査を進めるかが鍵でした。作業が深夜に及ぶ時も多いので。私は、今何をやるかの優先度を常に考えて、システムとも何度も調整して何とかスケジュール通りの日程で進めていきました。
- 小笠原:
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「しずく」には回転する他社の大型センサAMSR2が搭載されています。これを組み立てて、検査するのはかなり大変なことだったのではないですか?
- 唐土:
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前に担当した衛星でも他社の組み立て/検査技術者と一緒にやることは多かったので気心は知れていました。それと各関係者間の事前調整のお蔭で結構上手く運べました。
- 津元:
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それでも展開部は難しかったですよ。展開部についている “ヒンジ(ちょうつがい)” はなかなか同じようには動いてくれないものなので、取り付けの精度や、展開後の精度を実現するための調整は大変でしたね。
- 唐土:
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推進モジュール(大きな燃料タンクや、配管、ロケットエンジン部分)は衛星の下からモジュールごとすっぽりと入るような構造になっていますが、衛星本体とのクリアランス(すきま)がほんの数cmしかなくて容易に指も入らない、この組み立てはなかなか大変でした。狭かったので、細心の注意を払いました。

津元 憲聡
- 津元:
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とにかく試験で押さえるべきところは押さえた、手順にしたがって全てきちんとやった、そう思っています。
- 小笠原:
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衛星がロケットから分離して誕生した時のお気持ちは?
- 津元:
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「ほっとした」の一言につきます。
- 唐土:
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私には苦い思い出があります。1998年の「かけはし」の打ち上げの時です。ロケットが打ち上がったときに、打ち上げ見学場で私は感極まって号泣してたんです。少し気も静まって衛星管制室に入っていくと、みんなが気落ちしたような顔をしてるんですね。聞いてみると打ち上げロケットの不調で、正常な軌道に投入できていないと言うんです。これはショックでした。
ですから、今回も私は心のどこかで悪いほうへ悪いほうへ考えてしまっていたのです。ようやく安心したのはAMSR2のアンテナが展開した後でしょうか。
腕章の重さを胸に
- 唐土:
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当然、三人の先輩には敬意を表すると共に重圧すら感じますが、私にはこの三人だけではなく、OB含め諸先輩たちは皆、「名工」に思えます。自分がその人たちを引き継いでいかなければならないという自負もあります。なんといっても先輩のすごいところは品質へのこだわりですね。正直、そこまでやるか!という感じを受けるときもありますよ。
- 津元:
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私も同感。検査の先輩たちは何しろ経験からくるものがいっぱいあります。そこをどう受け継ぐかが課題です。
- 小笠原:
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最近は随分若い人も採用していますね、現代の若者、お二人からはどう見えますか?
- 津元:
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製造、検査に入ってくる若者たちは必ずしも宇宙がやりたくて入ってくるわけではありません。そういった若者たちにまずどうやって自分達の仕事に興味を持ってもらうかが最初の課題です。いろんな現場を見学したり、自分達のやったことが最終的にどういう形にできあがっていくかを実体験してもらっています。
それぞれ得意分野を持っているので、そこをどう延ばし、他の分野にも仕事を広げる足がかりにするか、いつも考えながら指導してます。 - 唐土:
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でも衛星システムの組み立て担当は一機目じゃ難しいですね、先輩についていくのがやっと、二機目、まだまだ。三機目でようやく独り立ちかな。まだまだ先長いですよ。TL(タスクリーダー)の腕章(リーダーを認識するため現場では腕章をつけることになっている)は重いですね。単なる役割分担とは思えない重さがある。


- 小笠原:
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ものづくりの象徴のような衛星造りですが、自分の仕事に対しての誇りを最後に聞かせてください。
- 津元:
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腕章の話がでましたね、私は自分の担当の検査が一段落してTLの腕章外すと、一気に開放されたような気分がします。本当に軽い薄っぺらな腕章ですが、実に重いものですね。
- 唐土:
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部品や機器、サブシステム等の製造工程を引き継ぎ、私たちが衛星造りの最終フェーズを預かっているわけですから、「NECの看板」を背負った感じがします。ここが最後で、後は宇宙空間に打ち上がるわけですから。これが我々の誇りでしょうか。

- 津元:
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そうですね、この誇りを若いメンバーに引き継いでいかないと、だってまだまだ宇宙開発は過渡期、我々はまだその過渡期にいるのですから。
- 唐土:
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私たちは気候変動観測衛星GCOM-C1の作業を始めます、もういくつもの調整事項が動いています。精密な光学系が入っているだけになかなか難しい衛星です。
- 津元:
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毎年かなりな数の若い人が入社してくるので、がんがん育てる、これが大仕事だと思っています。
- 小笠原:
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震災の対応からはじまって、先輩への思いやら、若い人たちへの期待まで、多岐にわたったお話聞かせていただいてありがとうございました。
淡々とした語り口の中に、自分達の仕事への信念と誇りを語り続けた、唐土と津元。名工といわれる先輩の技を受け継ぎ、そして今、新しい戦力になろうとする多くの若手を育てる立場に立つ。
将来の「ものづくり」への不安がささやかれる日本で、その看板を背負う男たちが語る姿はゆるぎないものだった。あの震災を乗り越え、無事「しずく」を誕生させたその匠の技で、彼らの手から次はどんな衛星が作り出されるのだろうか。
取材・執筆 小笠原雅弘 2012年7月30日
唐土 宏行(からど ひろゆき)
NEC東芝スペースシステム
1985年NEC入社
2007年NEC東芝スペースシステム出向
2008年よりGCOM-W1組立担当

津元 憲聡(つもと のりあき)
NEC東芝スペースシステム
1986年NEC入社
2007年NEC東芝スペースシステム出向
2008年よりGCOM-W1検査担当
