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その重要性と環境問題にも貢献する未来展望

量子アニーリング理論の第一人者が語る

本インタビューでは、NEC北米研究所在籍時に発表した論文によって、量子アニーリング方式の発展に大きく寄与したガブリエル・アプリ博士に、この方式の魅力や将来の展望についてお訊きしました。

ガブリエル・アプリ博士プロフィール

スイス連邦工科大学チューリッヒ校、および同ローザンヌ校の物理学教授であり、ロンドンのナノテクノロジー・センターの共同創立者。また、物質研究用の大粒子加速装置を備えたスイスの基礎科学研究施設であるパウル・シェラー研究所の光子科学部門を設立し、その部門長も務める。
同博士はマサチューセッツ工科大学出身で、1978年に数学のBSc(学士相当)、1983年に電気工学のBSc(学士相当)、MSc(修士相当)、博士号を取得。同大学の研究助手になると共に、IBMにてインダストリアル・コ・オプ・スチューデント(*1)としても研究に従事。
さらに、ベル研究所の優秀テクニカルスタッフを経たのち、1996年から、プリンストンにあるNEC北米研究所の上級科学研究員として量子関連技術の研究を行う。
2002年に、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの物理学クアイン・プロフェッサー(*2)となる一方、ロンドン・ナノテクノロジー・センターの共同設立にも尽力し、同センター長に就任。2014年4月からスイス連邦工科大学に移籍して教授に就任、現在に至る。
量子物性学の専門家である同博士は、関連する様々な学会の役員や議長ともなっており、その功績を称えて日本、アメリカ、イギリスなどから数々の学術的な賞を受賞。
特に同博士が、NEC北米研究所に在籍中の1999年に3名の研究者と共に発表した論文"Quantum annealing of a disordered magnet"は、量子アニーリングに基づく量子コンピュータの研究に大きく寄与。世界初の量子アニーリングマシンを開発・販売するD-ウェイブも、同社のプロジェクトを進展させるきっかけとなったこの論文を高く評価している。
同博士は、現在、主に情報処理と医療分野に対する光子科学およびナノテクノロジーの応用に関する研究を行っている。

  • (*1)
    インダストリアル・コ・オプ:通常のインターンよりも業務に深く関わり、給料も支払われるポジション。
  • (*2)
    クアイン・プロフェッサー:ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで特定分野における功績が認められた教授に与えられる称号。

わからないからこそ取り組む価値がある量子コンピューティング

Q1アプリ博士の主な研究内容(専門分野)について教えてください。
A1

私は元々、主に磁気の量子的および古典的特性について研究していました。また、超伝導も私の興味を惹いた研究課題でした。固体素子を用いた量子コンピュータのハードウェアの中には、超電導状態が必要なものもあります。
そして、量子アニーリングについての研究を本格的に始めたのが、ちょうどNEC北米研究所にいたときでした。その際に感じたのは、NEC北米研究所が理想的な研究のための環境を提供してくれたということです。特に、こうした研究では周囲の優れた研究者たちと意見交換できることが何よりも重要なのですが、アメリカと日本の双方に、そのような同僚たちがいました。研究者が、長期的な視点から世界にインパクトを与えられ、これだ!と情熱を燃やせる研究テーマに打ち込ませてくれる雰囲気があったのも、ありがたかったですね。

D-ウェイブの成果を決定づけた量子アニーリング

Q1世界で初めて量子アニーリングマシンを商用化したD-ウェイブ創始者のジョーディ・ローズ氏は、2010年のグーグル・ワークショップにおいて、「量子アニーリングマシンを開発する大きなきっかけとなった」として、アプリ博士らの論文を紹介しました。その論文を書くにあたって最も苦労された点はどのようなものでしたか?
A1

量子アニーリングに関する論文では、量子がトンネリングを起こして、システムが古典的なバリアホッピング(*3)よりも短時間で平衡状態になるという仮説を立てました。これについては改めて説明しますが、研究の時点では、平衡状態になるまでの時間がわからなかったという点が問題でした。また、最初の論文では、量子のトンネリングメカニズムのモデルが正しいかどうか、完全には証明できていなかったのです。この点は、続いて発表した2つめの論文で完全に証明できたのですが、最初の論文を書いているときにはその部分で苦労したことを覚えています。証明できていない状態でも、自らを、そのモデルで正しいはずだと納得させて研究を続けることが必要だったからです。

  • (*3)
    バリアホッピング:エネルギーの低いところに存在していた電子が、外部からの熱や光のエネルギーによってホッピング(飛び跳ね)し、ある確率のもとで、さらにエネルギーの低い場所に移動しようとする現象。

Q2D-ウェイブという企業が世に出てきたとき、どのように思われましたか?
A2

とても興奮しました。私たちのアイデアを真剣に受け止めて、ビジネスに結びつけようとする企業が現れたのですから。
D-ウェイブの人たちとは、カンファレンスの席上や、実際に会社を訪れ、科学的なディスカッションを行いました。そして、D-ウェイブのマシンについて私たちが研究を進めるための資金も、様々な企業から集めることができたのです。

量子コンピュータの優位性と魅力

Q1量子コンピュータの優位性とは何でしょうか?
A1

量子コンピュータの優位性は、理論計算機科学者で数学者のピーター・ショアが、1994年に、古典的なコンピュータでは効率的な適用手法が見出されていなかった高速な量子アルゴリズムによって、桁の多い数の素因数分解ができると理論的に示したことで、強く印象づけられました。このような桁数の大きな素因数分解が現在のデジタル技術では高速に実行できないことが、広く用いられているある種の暗号技術の基礎になっていますが、ショアの研究によって量子コンピュータがあれば解くことが可能であると示唆されたのです。
そのような処理が実際にどの程度存在するかは興味深いところですが、ショアの量子アルゴリズムの発表から四半世紀が過ぎても、それ以上に効率的な古典的アルゴリズムが出現していないという事実によって、古典的なコンピュータでは対応できず、量子コンピュータであれば解決できる問題があるという確信が強まっていることは確かです。もちろん、だからといって、そのことが証明されたわけではありませんが。
また、量子コンピュータは原理的に古典的なコンピュータよりも効率的に機能させることができます。現在のコンピュータは熱力学的にとても非効率なもので、その意味では、たとえば近年の航空機よりも効率が悪いのです。東京からチューリッヒまで旅客機で飛べば、かなりのケロシン、つまりジェット燃料を消費し、CO2の排出量も無視できません。しかし、現実にはコンピュータはそれ以上に環境に悪影響を与えています。インターネットで検索を行えば、1回あたり最大で紅茶一杯分を沸かせるだけのエネルギーを使うほどです。長期的な観点から見て、人類はCO2の排出量を抑えるためにも量子力学を真剣に活用していく必要があるでしょう。
もちろん、現在考えられている量子コンピュータは、冷却のために大きな電力を要するので、効率が良くありません。しかし、将来的な量子コンピュータは、より室温に近い温度で機能することが期待されており、熱力学的にも高効率な処理が可能となるはずです。
NECのWebサイトでも、IT技術によるCO2の排出量の増大が大きな懸念事項となっていることを示す、クラウドサービスの冷却効率(*4)の話題が採り上げられていて興味深く拝見しましたが、たとえ古典的なコンピュータで解けるような問題であっても、適切な量子コンピュータで置き換えることによってエネルギーコストと環境負荷を減らせる可能性があるはずなのです。

Q2博士にとって、量子コンピューティングの学術的な魅力は、どこにありますか?
A2

私が量子コンピューティングに惹かれるのは、理論的には可能でも、それを完全な形で実現するための課題が色々とあり、どのように解決すれば良いかが解明されていないという点です(笑)。わからないから、取り組む価値があります。
ベル研究所にいたときにピーター・ショアの論文を読んで興味を持ったのですが、NECの北米研究所では実際に量子力学に関心のある研究者たちに囲まれて、それを計算に応用することの妥当性を示す実験的なデモンストレーションができないものかと願っていました。当時、私も、自分が研究していた量子物性学の実用的な応用方法を考えていたので、そういう同僚たちの存在は大きかったといえます。
また、著名な物理学者のリチャード・ファインマンが1959年に行った米国物理学会年次総会の講演で、量子力学的な「振る舞い」を使って計算を行うことができる可能性が示され、それと量子コンピュータとの明確な関係性に興味を持ったことも動機づけとなりました。

後編では、量子アニーリングついて、より詳しく伺います。