マネジメントフォーラム2019 in 広島
大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)館長
戸髙 一成 氏

    「歴史から振り返る技術の進歩と展望」

    明治改元から150年、日本の技術導入の歴史を振り返ると、その典型を海軍に見ることができる。維新からわずか約70年で世界最大の戦艦「大和」を竣工した日本海軍。大和をつくるまでの日本人の努力と痛ましい悲劇の両面から得られる学びについて、大和ミュージアム館長の戸髙一成氏に語っていただいた。

  • 講師

    大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)館長
    戸髙 一成 氏

    <プロフィール>

    【略歴】

    • 1948年 宮崎県生まれ。
    • 1973年 多摩美術大学美術学部卒
    • 1992年 (財)史料調査会理事就任
    • 1999年 厚労省所管「昭和館」図書情報部 部長就任
    • 2004年 呉市企画部参事補就任
    • 2005年 呉市海事歴史科学館 館長就任

    【著書・その他】
    「戦艦大和復元プロジェクト」「戦艦大和に捧ぐ」「聞き書き・日本海軍史」「『証言録』海軍反省会」「海戦からみた太平洋戦争」「海戦からみた日清戦争」「海戦からみた日露戦争」。編・監訳に「戦艦大和・武蔵 設計と建造」「秋山真之戦術論集」「マハン海軍戦略」、共著に「日本海軍史」「日本陸海軍事典」「日本海軍はなぜ過ったか」、部分執筆としてオックスフォード大学出版部から発行された「海事歴史百科辞典」全4巻(The Oxford Encyclopedia of Maritime History 2007)に東郷平八郎や呉海軍工廠などの項目を執筆。

    戸髙 一成 氏
  • 詳細

    ●江戸の社会が育んだ“ものづくり”の精神

    日本の近代技術の発展は1853年の「ペリー(黒船)来航からはじまった」と戸髙氏は、述べる。ペリーは日本に来る前に、東南アジアなどを回り、現地でヨーロッパやアメリカの最新技術をデモンストレーションするという、一種の“文化的な恫喝”を行っていた。江戸においても蒸気機関車などの最新技術を見せ、驚かそうとするが、日本人の反応は他の国とは違ったようだ。彼らは蒸気機関車などを観察・研究し、数年で自らの手でつくってしまったという。

    なぜそのようなことができたのか。戸髙氏は、江戸時代の日本では職人など、ものをつくる人の社会的ステイタスが非常に高かったことが背景にあるという。

    「大国であった清をはじめ、当時のアジアの国々では、ものづくりをする人の社会的地位は極めて低かったのですね。優秀な人間は、勉強して政治家や芸術家になろうとする。決してものづくりの道に進もうとはしなかった。幕末から明治にかけて、アジアの中で、日本が他の国と違う道を進みはじめた理由のひとつは、こんなところにあったと思います」

    明治になり、日本の構造ががらりと変わる。明治政府は日本をヨーロッパと互角の国家として成り立たせるため、新しい国づくりを推進するが、戸髙氏は「そのときに真っ先に必要だったのが海軍だった」とし、横須賀海軍工廠に加えて、現在の広島県呉市に“アジア一”を目指した巨大な海軍工廠を建設したと述べる。

    「ただつくる施設ができたからといって軍艦がつくれるわけではありません。工員をどう育成するか、これが大問題でした。明治10年、20年頃までは生活も何もかも江戸時代とほとんど変わらない時代ですから、そんな中でヨーロッパの先端の造船技術を導入することは大変なこと。先輩もいないし、ヨーロッパから先生は来ますが日本語はしゃべれません。それでも頑張り、明治30年(1897年)には「宮古」という最初の軍艦をつくるのですね。図面はイギリス海軍から提供を受けていますが、建造そのものは日本人がやりました。全くのゼロの状態から30年で第一線の軍艦をつくることができたのは、驚くべき教育の成果だったと思います」

    ●“技術の断絶”を防ぐための努力

    宮古を建造した後、日本海軍は驚くべきスピードで技術を発展させ、第一次大戦直後の大正9年(1920年)、10年(1921年)には世界初の41センチ砲を搭載した戦艦「長門」「陸奥」をつくるまでに至った。

     「日本は大変優秀な生徒で、イギリスなどは技術面でも積極的に支援してくれていました。ところが第一世界大戦が終わってみると、ヨーロッパは戦争で大変疲弊しているのに、当時連合国の一員であった日本は戦禍をこうむることなく、膨大な船舶輸送により造船バブルに沸いていました。イギリスやアメリカなどは、日本だけが稼ぎどんどん戦艦をつくるようになった状態を見て、けしからんと。大正10年(1921年)には、主力艦の建造などを10年間停止する『ワシントン海軍軍縮条約』の締結を要求してきました」

     戸髙氏によると、“造船バブル”に沸き、国家予算の40%近くを使う海軍の軍備拡張計画「八八艦隊」を推進していた日本は、この軍縮条約の批准により財政破綻を逃れられた一面もあるという。だがこのとき日本海軍はひとつ大きな問題を抱えることになった。

     「この条約を締結すると10年間は主力艦をつくらないことになります。それはどういうことか。明治が始まって以来培ってきた軍艦建造の能力が失われることになる。ですから、このあと海軍はいかに技術を維持するかに一番力を入れるようになります」

     一般的な船をいくらつくっても軍艦建造の修練にはつながらない。そこで日本海軍では、軍縮条約で保有を許された軍艦を順々に造船所に入れ、(改修)工事を続けられる状態を維持し、技術の断絶を防いだ。そしてさらに力を入れたのが工員教育だという。

    「当時、勉強ができる子どもは皆、東京の大学に行こうとする。その中で、造船の工員になりなさいというのは難しかった。そこで海軍が講じたのが、海軍の制度の中で工員のステイタスを高く設定するという策でした」

    こういう形をとると、呉の海軍工廠の工員学校が、地元の優秀な子どもにとって、東京の大学に匹敵する選択肢のひとつになる。競争率も高くなり、優秀な人間が集まるようになる。日髙氏は、「教育は優秀な生徒をとれるかどうかで8割ほどが決まる」とし、当時の日本海軍のやり方は非常に巧いやり方だったと説明した。

    ●世界最大の戦艦「大和」建造

    昭和10年(1935年)頃になると世界情勢に変化が起き、「近々戦争が起こるのでは」という空気が流れ、日本政府はワシントン海軍軍縮条約を破棄する。そうした中で、どのような軍艦(大和)を新たに建造するかが大きな課題となった。

    「技術というのは、現場でつくるのではなく、その前に設計をする人がいる。さらにその前には、どんなものをつくるかを考える、つまり基本コンセプトを考える段階が必要です。戦艦大和の場合、この基本コンセプトは間違っていなかったと思います」

    当時、仮想敵国だったアメリカの戦艦は40センチ砲が最大だったため、その上をいく46センチ砲を複数備えた戦艦が必要となる。さらに戦艦の速度は将来速くなることが想定されるため、最大速力は30ノット以上(実際の大和の最大速力は約27ノット)欲しいという基本コンセプトを立て、海軍艦政本部でアウトラインを決定したという。

    昭和12年(1937年)に起工した大和は、昭和16年(1941年)に竣工する。戸髙氏によると、プロジェクトがスタートした当初の竣工予定は昭和17年(1942年)の夏頃だった。ところが昭和15年(1940年)を過ぎた頃から日米関係が非常に緊迫してきたため、工期の大幅な繰り上げが要求された。

    「こういう世界でも、初めてのものをつくるとなれば、工期は伸びて当たり前。それを繰り上げて完成させたのですから、これはやはり現場の力ですね。徹底的に訓練を受けたチーム、十分な施設、合理的な建造スタイルがあってはじめてできたことだと思います」

    このときに現場の人間があらためて実感したのが「段取り」の重要性だ。ものづくりは、基本コンセプトを考え、設計し、現場でつくるだけでなく、その「制作過程を考えること」が重要な要素のひとつだと理解したという。これ以降、日本の軍艦の工期は大幅に短くなる。こうして完成した世界最大の戦艦大和だったが、その戦艦としての一生は決して理想的なものではなかったと戸髙氏は述べる。

    「そもそも軍備というのは基本的には武力衝突を抑えるための抑止力としてあるもので、ひとつの外交ツールとして存在するわけです。能力を他国が認め、何事ともなく数十年過ごしてスクラップになるというのが、戦艦の理想的な一生なのです。その意味では大和は大変に気の毒な一生だった」

    さらに戸髙氏は“もの”というものは、「つくる能力」だけでは足りない、と語気を強める。

    「高度なものほど、高度な『使う能力』が必要なのですね。日本は明治以来、軍艦製造技術の導入に力を傾け過ぎた。戦艦をいかに外交ツールとして使うかでまず失敗し、そして、実戦に使うという意図を持ちながら、『いつが決戦か』を見切れなかったのですね。これはいかに使う能力の育成が難しいかを示しています。“もの”ということを考えたときに、つくる能力を養成するとともに、使う能力も養成しないといけない。ありとあらゆる方向に能力が必要となるのが“技術”というものの体系ではないかと思います」

    ●技術の力は平和のもとで発揮される

    昭和20年(1945年)4月7日、戦艦大和は、作戦遂行のため沖縄に向かう途中にアメリカ軍の攻撃を受け、大爆発を起こして沈没した。

    大和をはじめとする軍艦建造で培われた技術は、戦後大きく花開く。戦後わずか11年後の昭和31年(1956年)、日本は造船業で世界一となった。現在も世界でトップクラスの造船大国として知られている。また造船業以外にも、さまざまな分野で高い技術が引き継がれている。

    こうした技術の継承について戸髙氏は「すごいこと」と讃えつつも、「本当は何がすごいのかを見極めないといけない」と述べ、次のような言葉で講演を締めくくった。

    「造船業が世界一というのは、受注量が世界一ということです。当時の日本の船会社に(国内で)発注する会社などありません。では誰が発注していたのか。世界一の量の発注をしたのは、つい先日まで戦争をしていたアメリカなのですね。アメリカには無傷の造船場が山ほどあるのに、全部パスして日本に発注が来たのです。これが技術というものの大切な部分です。平和でありさえすれば、一番いいものを安くつくってくれるところに発注が来る。技術というものは、平和であってはじめて本当の力を発揮するということも、日本の造船の歴史の中から感じ取れることです」