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- 第9回 「氷点」 ゆかりの地 北海道・旭川市
文学散歩

風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝いて、くくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かった。その影が生あるもののように、くろぐろと息づいて見える。
「氷点」の書き出しは、旭川市内にある国有の外国樹種見本林の描写からはじまります。小さい頃よく見本林で遊んだという旭川保健医療情報センター(AHMIC)の今井智子さんは「見本林を訪れるのは久しぶりなので楽しみです」と語り、小島梨奈さんは「小説の舞台を訪れ、活字のイメージとの違いを楽しみたいと思います」と文学散歩への期待を話してくれました。今回、同行していただいたお二人が勤めるAHMICは、保健医療福祉分野や医療機関向けのシステム開発を中核事業としており、今井さんは総務課で経理業務を担当、小島さんはシステム課で健診システム開発に携わっています。
最初に訪れたのは、旭川で最も古い喫茶店といわれる「珈琲亭ちろる」です。作中では、主人公である陽子の母、夏枝と眼科医の村井が対話する場面で登場します。店内は、時代を感じさせる赤煉瓦の壁と太い梁、木の床に囲まれ落ち着いた雰囲気を醸し出しています。香り立つ珈琲を堪能した二人は、次に旭川六条教会へ向かいました。ここは三浦綾子が所属し、結婚式を挙げた教会です。作中では、罪の意識に駆られた陽子の父、啓造が「こんな愚かな醜い自分でも、なお真実に生きていくことができるか牧師に聞いてみようか」と思い立ち、教会前で逡巡する姿が描かれています。「私はキリスト教徒ではありませんが、氷点を読んで“罪”と“ゆるし”の大切さについて深く考えさせられました」と小島さん。
旭川市でもっとも古い喫茶店として知られる「珈琲亭ちろる」
次に訪れたのは三浦綾子記念文学館です。この文学館は「氷点」の舞台である見本林の入口に建てられており、訪れるだけで作中に入り込んだような感覚を味わうことができます。館内には三浦綾子の足跡を示す展示物や、直筆の原稿、貴重な写真、資料などを閲覧できます。病に伏せながらご主人である光世さんの協力を得て、精力的に作品を作り続けたことを知った今井さんは「お二人が手を取り合って作品を作り続けたことを知り、感動しました。特に、綾子さんが本の装丁に書いて、光世さんに送った『本当に本当にありがとう』という言葉が心に響きました」と話してくれました。
文学館を出ると、空を覆い尽くさんばかりに木々が茂る見本林が広がっています。ここは1898年にストローブマツやヨーロッパカラマツなど外国樹を植栽した、100年の歴史を持つ国有林です。三浦綾子は「氷点」の中で、この多様な樹種が繁る見本林に舞台装置的な役割を与えています。ストローブマツ林には『生きることの迷いと苦しみの世界』、ドイツトーヒ林には『心の奥の世界・死の潜む領域』、堤防には『闇の世界と現実との境界領域』などの意味合いを持たせ、そこを訪れた登場人物の心模様を表現しているのです。「見本林が作品に重要な意味を与えていることを知り、木々の表情や樹影までいつもと違って見えてきました」と小島さん。
直筆原稿や写真など貴重な資料を所蔵する三浦綾子記念文学館
小説の主要な舞台となった外国樹種見本林
最後に「氷点」ゆかりの地を歩いた感想をお二人に伺いました。「子どもの頃から知っている見本林ですが、作品の背景や意図を知るだけでこんなにも印象が変わるのだと感じました。今日の体験を踏まえ、あらためて『氷点』を読みたいと思いました」(今井さん)。「文学館で解説を伺い、以前読んだときにはわからなかった作品の奥深さを知ることができたので、もういちど違う視点で作品を読み返してみようと思います」(小島さん)。
主人公の陽子は、物語の終盤に「私はいやです。自分のみにくさを少しでも認めるのがいやなのです。醜い自分がいやなのです。けれども、既に私は自分の中に罪を見てしまいました。こんな私に、人を愛することなど、どうしてできるでしょう」という痛烈な言葉を残します。誰の心にも存在する原罪を描いた「氷点」は、風に揺れる見本林の木々のように、いつの世も読者の心を強く揺さぶります。
作中で『闇の世界と現実との境界領域』を表わした堤防
『生きることの迷いと苦しみの世界』を表現したストローブマツ林
『原罪とその結果である死の荒涼たる世界』を描いた美瑛川の川原
(2011年10月20日掲載)
作品紹介
『氷点』 三浦綾子著
辻口啓造は、妻の不貞に対する復讐心から「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉を装い、実の娘を殺害した犯人の子を引き取り陽子と名付け育てる。その秘密に気付いた妻は陽子に陰湿ないじめをはじめる。逆境にもめげず強く生きる陽子だったが、あるとき出生の秘密を告げられ心が凍りつく。誰の心にも宿る原罪をテーマにした不朽の名作。
『氷点』上下巻(C)角川書店
珈琲亭ちろる六条教会
三浦綾子記念文学館
外国樹種見本林
<所要時間:約3時間>
珈琲亭ちろる
「氷点」に登場する旭川最古の喫茶店で、創業は1939(昭和14)年。歴史を感じさせる重厚な赤レンガの建物はレトロな雰囲気で、観光客にも人気のスポットである。
六条教会
1901年(明治34年)10月13日、旭川組合基督教会として創立。『氷点』に登場する実在する教会で、三浦綾子が所属した。
三浦綾子記念文学館
三浦綾子が亡くなる1年前の平成10年にオープン。三浦綾子にゆかりのある文学資料が収集保存され、業績と作品、また作品が書かれた当時の時代背景などをわかりやすく紹介されている。「ひかりと愛といのち」をテーマにした5つの展示室のほか図書室、資料室、喫茶室などがある。建物は変形12面体でつくられ、雪の結晶をイメージしたものである。
神楽外国樹種見本林
「氷点」の舞台となった国有林。ストローブマツやヨーロッパトウヒといった外国樹の成長を観察することを目的に明治31年に植林された。美瑛川の堤防を跨いで18haの林が広がり、旭川八景のひとつに選ばれている。
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珈琲亭ちろる
旭川市3条通8丁目左7(日曜休)