MY CHRONOLOGY~未来へ続く年表~
株式会社市原代表、伝統工芸士・東京洋傘職人
奥田正子氏

妥協なき職人技と洗練されたデザインで、
洋傘をファッション・アイテムに変えた影の立役者。

戦後間もない1946年から紳士向けベルトや洋傘、服飾雑貨中心に企画・デザイン・製造してきた株式会社市原。オリジナルブランドの洋傘「Ramuda」をはじめ、さまざまなメンズファッション・アイテムを手掛け、業界を牽引してきた同社代表の奥田正子氏が語る物づくりの原点とは。

(文/井上 隆文 写真/信澤 邦彦)

奥田 正子(おくだ まさこ)氏 Profile

株式会社市原代表、伝統工芸士・東京洋傘職人

1946年〜 メンズファッションの隆盛を黒子として支えた株式会社市原

1946年、株式会社市原は、東京浅草で紳士向け服飾雑貨を企画・開発する会社として創業。その翌年、創業社長である父親の長女として奥田は産声を上げた。父親は、戦前から紳士物ベルトなどのデザインに従事し、戦後すぐに会社を立ち上げたメンズファッション業界の草分け的存在である。60年代にアイビールック、70年代にトラッドという一大ムーブメントが起きた日本で、アパレルメーカーや百貨店の依頼を受けて流行の先端をいくベルトやカフスボタン、ネクタイピンなどの企画・デザイン・製造を手掛けたのが市原だった。そのような意味で日本のメンズファッションを黒子として支え続けた会社といっても過言ではない。

幼い頃は、父親の仕事についてほとんど知らなかった奥田だが、ファッションや編み物などに興味があり、中学へ上がる頃には自分でスカートを縫えるまでになっていた。もっと本格的に編み物を習いたいと、家から近い蔵前家政学院へ入学。中学・高校・大学に通いながら夜通っていた。和裁、洋裁、編み物を学び、卒業後はニットのデザイナーとして独り立ちした。

「編み機メーカーや雑誌社の依頼を受けて、洋服をデザインする仕事をしていました。他にも家政学院の教員や編物技能検定の審査員、編み物教室の先生などもしました」と、奥田は当時を振り返る。

1989年〜 二代目を継いだ長男が急逝、事務職として市原へ入社

父親が会長へ退き、長男が二代目を継承、次男は製造部門を任された。長男は父親譲りのデザインセンスがあり、さまざまな商品の企画・開発に携わった。特にベルトのバックルデザインでは非凡なセンスを発揮し、数多くの意匠を登録して会社の成長に貢献した。

一方、奥田の仕事は、80年代になると次第に先細りとなっていく。安価なセーターやカーディガンなど既製品が店頭に並び始め、編み物をする女性が激減。編み物教室は閉鎖され、空気が抜けた風船のように業界全体が一気に萎んでしまった。

その頃、市原は大きな試練に見舞われる。事業を牽引していた長男が急逝してしまったのだ。急遽、次男が代表を継いだが、社内外の混乱は収まらなかった。

「事務や経理を仕切る人間が必要になり、弟に勧められて急遽入社することになりました。ちょうど昭和が終わり、平成が始まる年でした」

この頃の市原は、洋傘づくりが事業の大半を占めるまでに成長していた。それまで紳士物の傘といえば黒いコウモリ傘ばかりだった時代に、アパレルメーカーと手を組み、斬新なトラッドデザインや、新しい生地を取り入れたファッション性に優れた傘を開発したところ、業界人やお洒落な男性たちから絶大な支持を得た。これを機に「メンズファッション傘なら市原」との評判が業界中に広まる。

「当時、傘は季節商品で、冬になると百貨店の売り場から外されたんですね。どうすれば一年中売れる傘ができるのか、お取引先さまと一緒に開発したのがヨーロピアンなデザインを取り入れた『Ramuda』でした。この商品が大ヒットし、Ramudaの傘はファッション・アイテムとして認知されるようになったのです」

2005年〜 “雨が降るのが待ち遠しくなる”上質で洗練された手づくりの傘

「Ramuda」は、生地にサテンのような光沢を放つ甲州織、手元には天然木を使用、玉のように雨を弾く撥水性、紫外線を防ぐUV加工が施され、品質も機能も一級品だ。特にトラディショナルなデザインと美しい色合いは、他の洋傘とは一線を画し、本物にこだわる男性から絶大な支持を受ける。

「特にこだわっているのは、骨と骨の間が谷間に見える“谷落ち張り”という生地の張り方です。この部分に雨粒が落ちると太鼓のような心地よい音が響き、雨粒は玉のようにコロコロと流れ落ちます。その心地よい雨音を聞きたくて“雨が降るのが待ち遠しい”とおっしゃるお客さまもいるくらいです。美しい“谷落ち張り”は、生地の繊維や収縮率を見極められる職人がいなければつくれないので、私どもも1本1本すべての傘を手づくりしています」

洋傘は40〜50ものパーツで構成され、各工程には専門の知識と技術が求められる。特に難しいのが、生地の裁断に欠かせない木型の作成だ。例えば、同じ65センチの傘生地でも、同じ木型は流用できない。なぜなら、生地によって収縮率が異なるので、まったく同じ裁断をしても縫製後に型が崩れてしまうからだ。生地の収縮率・織り方・完成イメージを理解していなければ、最適な木型はつくれない。だから、市原では、営業企画チームが企画からデザイン、生地の選定、発注を行い、職人がそれを具現化し、木型作成、製造を行う。全ての工程に社員全員で携わる。この自社一貫生産体制があるから、他が真似できない美しい東京洋傘をつくれるのだ。

市原は、この卓越したデザイン力と、それを傘に落とし込める強みを、経営にも活かすべきだと考え、2005年に代表の交代に踏み切った。

「私どもの傘は、原価と工賃を積み上げて価格を積算する工業製品ではなく、付加価値の高いファッション・アイテムなのです。そこが強みである以上、製造現場出身の弟より、ファッションやデザインの世界を歩いてきた私の方が適切な経営ができるだろうとの判断から、代表を交代することになりました」

2017年〜 本社内に洋傘工房を立ち上げ、東京洋傘職人の育成に取り組む

「私どもは自社ブランド品だけではなく、アパレルメーカーや百貨店、大手ブランドのOEM製品も手掛けているので、お取引先さまと一緒に企画・開発する機会が非常に多いという特徴があります。以前は、少し離れた場所に工房を持っていましたが、やはりミシンの音が聞こえる場所で、お取引先さまと職人が一緒に企画を練り、試作を重ねた方が良いだろうと考え、本社内に工房を移転しました」

工房を立ち上げたもうひとつの目的は、高齢化が進む傘職人の育成にあった。

「今、伝統工芸士・東京洋傘職人は、私と製造部長の林康明の2名を含む、8名しかおらず、将来、傘職人が不足することが懸念されています。この課題を解決するために東京都洋傘協同組合と連携し、私どもの工房を使い『洋傘職人養成講座』を始めました」

この講座には、傘づくりを仕事にしたい人から、趣味で技術を身につけたい人まで、さまざまな人たちが通っている。

「この講座は林なくして実現できませんでした。営業職だった林は50歳を過ぎてから職人の手ほどきを受け、技術を身につけたのですが、修行中に傘づくりの全工程をノートに書き綴り、オリジナルの教本を完成させました。この教本が完成したおかげで、それまでは『背中を見て学ぶ』しかなかった職人技を講座に通うことで一定レベルまで身につけられるようになったのです。全国に同業は多数ありますが、自社に工房を持ち、教本を使って傘職人を育成しているのは、私どもだけだと思います」

FUTURE いつまでも愛用していただける上質な物づくりを続けたい。

「私が代表でいる間は、現在の業態を変えるつもりはありません。ただ、今の仕事は職人の負担が大き過ぎるので、もっと機械化したいと思っています。資金的には大変ですが、上質な東京洋傘をもっと多くの人に届けるには、生産性の向上が必要なので機械化は避けて通れないと思っています」と、奥田は今後の事業計画について話す。

ニットのデザインを経てメンズファッションの世界に入り、物づくりを究めてきた半生について、奥田は以下のように振り返る。

「長く物づくりに携われたことは、本当に幸せだったと思います。また、市原に入社後、仕事を通じて巡り合ったたくさんの人たちは、私にとって最大の財産です。中でも、藤子・F・不二雄プロの伊藤善章 前社長との出会いは忘れられません。伊藤前社長が90年代に小学館にお勤めの頃、雑誌「サライ」の商品に携わった際に知り合ったご縁で藤子・F・不二雄プロの小物をつくらせていただいたことは、とても良い経験になりました。物づくりを通じて得られた最大の喜びは、私どもがつくった傘やベルト、帽子などをたくさんの方に大切に使っていただいていることです。雨の日に私どもの傘をさしている方を見るだけで、私はいつもうれしい気持ちになります」と、奥田は満面の笑みを浮かべて仕事の喜びについて話してくれた。

年表

  • 奥田氏の
    年表

    社会の
    年表

  • 1947

    千葉県五井町(疎開先)で生まれる

    白田忠三郎が折りたたみ洋傘骨の実用新案権取得

  • 1989

    株式会社市原入社

    日本洋傘振興協議会が6月11日を「傘の日」に制定

  • 2005

    代表に就任

    環境省が「クールビズ」を発表。男性用日傘が注目される

  • 2017

    本社内に洋傘工房設立

    埼玉で「日傘男子広め隊」が結成される