MY CHRONOLOGY~未来へ続く年表~
ブラウンズフィールド 中島デコ氏

草を食べても生きていける。その生命力が運命を拓く力になる

日々、米や野菜を育て、調味料を手作りし、畑・カフェ・宿などを営みながら、豊かな暮らしを楽しむ、ブラウンズフィールドはそんな場所。料理研究家の中島デコは、なぜこの持続可能な営みをはじめたのだろうか。

(文/井上 隆文 写真/信澤 邦彦)

中島 デコ(なかじま でこ)氏 Profile

マクロビオティック料理家。ブラウンズフィールドでは、みんなのお母さんであり、ご意見番的存在。

1958年〜 ぬいぐるみのお兄さんに教わったマクロビオティック

母親の口癖は「生きてるだけで、いいんじゃない」だった。いつも大声でガハハと笑い、料理が上手で、どんなときでも子どもたちを信じてくれた。そんな太陽のような母と、仕事一途な父と、仲良しの妹3人と、中島デコは雑木林や原っぱに囲まれた世田谷区等々力でおおらかな幼少期を過ごした。

16歳のとき、デパートの屋上や遊園地で開催される「ぬいぐるみショー」で司会のアルバイトをはじめた。時給が高く、全国を旅して回れることが気に入っていた。マクロビオティックの存在を教えてくれたのは、ぬいぐるみ役の演劇青年だった。

「デコというあだ名をつけたのも彼なんですけど、『玄米を食べると、運命が好転するんだよ』みたいなことを言われて、『やべー、これ宗教か。なんだ、この大人』って50メートルぐらい引きましたよ、そのときは。全然理解できなかったけど、ダイエットしたい年頃だったから、玄米食はちょっとだけ取り入れました」

胡散臭いと感じながらも玄米食を取り入れたのは、小さい頃から身体が弱かったことと、小学生のときの検査で血液型がRhマイナスだとわかったこと、そして高校で生物の教員に「Rhマイナスの女性は子どもを産むのが難しい(※)」と授業で言われたからだった。将来、家庭を持ったらたくさん子どもがほしいと思っていたので、健康な身体になれるというマクロビオティックに希望を感じたのである。

(※)母体がRhマイナスで胎児がRhプラスの場合、血液型不適合(胎児赤芽球症)で胎児が死亡するリスクがある

1984年〜 出産は自然な営み。健康な身体があれば自然に産まれるもの

バレエの先生をしながら劇団に所属していた24歳のとき、同じ劇団の男性から結婚を申し込まれた。結婚の先には出産が待っている。そのとき、高校の授業で言われた言葉を思い出し、健康な身体にならなくてはいけないと考え、デコは「お家では肉も魚も卵も牛乳も一切扱わないマクロビオティックの食事をつくりますけど、それでもいいですか?」と、結婚の条件を突きつけた。ポテトチップとコーラが大好きだった男性は戸惑ったが、その条件を受け入れて家族になった。

子どもを授かったのは結婚2年目。デコの場合は問題なく、助産師による自然分娩で元気な女の子を出産した。2人目は、ラマーズ法の助産院で出産。人工的ではない分娩こそ、本来の姿だという意識が高まり、3人目は自宅分娩に挑戦した。3人の子宝に恵まれる一方、夫との関係はうまくいかなくなり離婚に至る。

その後、友人のホームパーティーで知り合った写真家のエバレット・ブラウンと再婚。4人目の子どもは、バカンスで行ったバリ島のバンガローで誰の手も借りず出産した。5人目の末っ子に至っては、自宅のお風呂を使って独りで水中出産している。5人目は痛みもなく、最後に2回いきんだだけでスルッと出てきたと、デコは笑う。

「私、ものぐさなんですよ。子どもを病院に連れて行ったりするのが面倒なので、蹴飛ばしても這い上がってくるような元気な子どもを産みたかったんです。そのために自分が健康じゃないといけないから、マクロビオティックなんです。自然分娩も特別だとは思っていません。だって、犬やヤギだって自分で出産するのに、動物界のトップみたいな顔している人間だけ甘ったれているって思うわけ。じゃあ、何が違うのかって考えると、結局食べ物とか生活に行き着くんですよね」

1999年〜 東京の暮らしに限界を感じ、縁もゆかりもない千葉県いすみ市へ移住

物価の高い東京で5人の子どもをマクロビオティック食材だけで育てるのは大変だった。デコは、厳しい家計を助けるため、自宅のキッチンでマクロビオティック料理教室「ワンダーマミー」を開いた。最初は月1回開催だったが、次第にマクロビオティックの料理が人気となり、どんどん生徒が増え、最終的には週3回開催するまでになった。

料理教室の生徒に出版社や写真家とつながりを持つ人がいた縁で、エッセイ集や料理本を出版する機会を得た。この本がきっかけとなりメディアで取り上げられたり、女性誌や料理誌で特集を組まれたりしたことで、マクロビオティックはおしゃれな料理として感度の高い女性を中心に全国的なブームとなる。

マクロビオティックが脚光を浴びる一方、デコは東京の生活に限界を感じていた。「子どもをたくさん産んだのは一緒に楽しく過ごしたいからなのに、家計のために無理して働かなくちゃいけないので、子どもと一緒に過ごす時間が少ない。この悪循環から抜け出すには、自分で種をまいて作物を育てるしかないと思いました」

物件を探していると、千葉県に家付きの広い土地があるとの情報が入ってきた。当初、千葉はゴルフ場が多く、温泉も少ないなど、良いイメージはなかったが、竹林と雑木林に囲まれ、太陽が降り注ぎ、風が抜けていく、その平坦な土地を見て一目惚れした。

「亡くなった父のお墓がある茂原から近いことがわかり、これは『呼ばれた!』と思い、すぐ引っ越しを決めました」

2006年〜 ブラウンズフィールドという名の豊かな暮らしが、人を惹きつける

当初は、広大な自然の中でのびのび子どもを育て、自分たちで食べる程度の作物を育てられれば良いと考えていたが、料理研究家として暮らしぶりを紹介すると、遠方からわざわざ見学に来る人がおり、徐々に外部の人を受け入れる暮らしへ変わっていった。

「遠くから来てくださるから、畑仕事を止めてお相手したり、お茶を出したり、子どもたちにお昼をつくるとき『一緒に食べますか?』って聞くと、誰も断らないんですよ(笑)」

さらに、ロンドン発祥の農業体験と交流を目的とするNGO団体WWOOFのメンバーを受け入れたことがきっかけとなり、ブラウンズフィールドという事業へと発展していく。

「最初、見ず知らずの人間を住み込ませることは反対でしたが、ボランティアに来た米国人が好青年で、これは良いかもしれないと考えを改めました。そこから1人増え、2人増え、3人増え、その中から『カフェをやりたい』という人まで現れて『ライステラスカフェ』をはじめることになりました。カフェをはじめると、またお客さまが増えて今度は『泊まるところはないですか?』と聞かれるようになったので、蔵を改装してコテージをつくり、ご近所の空き家を譲ってもらい『慈慈の邸』という宿泊事業もはじめました。そんな成り行きではじまったのが、ブラウンズフィールドです」

やがて、週末だけ、1週間だけ、2週間だけのボランティアから、1カ月住み込みで手伝ってくれる人も現れ、どうせなら1年間運営を手伝ってくれるスタッフを募集しようということになった。

「今は、長期・短期の住み込みスタッフがいて、『丸ごと体験』という有料イベントに参加されるお客さまと、カフェや宿泊施設を利用されるお客さまがいらっしゃり、儲かりはしませんけど、半自給しているのでみんなご飯を食べられています。このシステムも集まったスタッフが考えたもので、私は、皆さんのお世話になって食べさせていただいている、そんな感じですね」と、ブラウンズフィールドの事業概要と自身の立場を話す。

FUTURE 毎日同じ釜の飯を食べて一緒に作業をすれば、家族以上になれる

コロナ禍が発生してからブラウンズフィールドの短期ボランティアに応募する人が増えた。

「仕事を辞めて、『このままの経済社会でいいのだろうか、縛られたままでいいのだろうか』と考えて人生を見つめ直しに来る人、『辛くて生きていけない、食べていけないかもしれない』みたいな不安に駆られている人、いろんな人が来ますが、ここでしばらく暮らすと、みんな生きる力が湧いてきます。『草を採って食べても生きていけるじゃん』『虫がそばにいたって寝られるじゃん』みたいな感じで生活力と生命力が満ち、自分のやりたいことをはじめるために、ここを卒業していく。そうやって巣立った卒業生が全国各地でお店を開いたり、クリエイターとして活動したり、持続可能な事業をはじめたり、みんなすばらしい活躍をしています」

先が見えない世界を生きるには、どんな環境に置かれても自分の足で歩き、困難に立ち向かう力が必要だが、それは教えられて身に付くものではない。ブラウンズフィールドを訪れた人たちは、そこに暮らす生命力あふれる人や動植物に感化され、心も身体も生まれ変わっていく。

「私は、完璧な場所をつくろうとは思っていません。誰も教えないけれど、自分で勝手に気付いて去っていく、それが一番です。どんどん種を蒔いて、たんぽぽの綿毛のように飛び立って、それぞれの場所で花開く。そういう場所になれたらいいですね」

次にデコがやりたいことは、高齢者向けのグループホームをつくることだという。

「数十年後、私も施設に入らないといけないかもしれないから、自分が入りたい施設を自分でつくろうと思っています。若い人にサポートしてもらって一緒に梅干しを漬けたり、味噌をつくったり、質素で粗食だけどクオリティの高いご飯を食べて、手仕事をみんなで教え合う、そんなグループホームをつくりたい。できれば、助産師になった三女に助産院を併設してもらって、生まれてから死ぬまで幸せに暮らせる場所にしたい。今、家族が孤立化して孤食とか独食とか言いますけど、血なんかつながっていなくても一緒に寝泊まりし、毎日同じ釜の飯を食べて一緒に作業をすれば、家族以上になれると、私は知っているので、そういうコミュニティをつくりたい。そういう場所が増えれば、きっとみんな幸せになれると思うんですよね」

16歳のときにぬいぐるみ役の青年から言われた「玄米を食べると、運命が変わる」は、本当だったとデコは笑う。運命なんて自分次第でいかようにも変えられる、ブラウンフィールドに集まった人たちは、それを知っている。

年表

  • 中島氏の
    年表

    社会の
    年表

  • 1958

    東京都世田谷区に生まれる

    東京都の学校給食に牛乳が加わる

  • 1974

    マクロビオティックと出会う

    桜沢如一著『東洋医学の哲学―最高判断力の書』が出版される

  • 1983

     

    農林水産省が日本型食生活を提唱

  • 1984

    第一子を出産

     

  • 1999

    千葉県いすみ市(当時は夷隈郡岬町)へ移住

    久司道夫氏がスミソニアン歴史博物館の殿堂入り

  • 2006

    「ライステラスカフェ」を開店

    桜沢如一没後40年企画「マクロビオティックの食・農・医」開催

  • 2011

    ナチュラルオーベルジュ慈慈の邸(ジジノイエ)をオープン

     

  • 2016

    『ブラウンズフィールドの丸いテーブル』を出版

    「第1回オーガニックライフスタイルEXPO」が開催される