MY CHRONOLOGY~未来へ続く年表~
アトリエ・アルケミスト 羽田由樹子氏

“つくる”が好きな人が集まる坂の上のアトリエは、素の自分と出会う場所

“つくる”ことが好きな人が集まり、心の赴くままデッサンしたり、油絵を描いたり、立体物をつくったり、「アトリエ・アルケミスト」は単なる美術教室ではなく、やわらかな時間の中で自分や世界と向き合える場所。主宰の羽田由樹子は、どうやってアートをテーマにした“第3の場所”をつくりあげたのか。

(文/井上 隆文 写真/信澤 邦彦)

羽田 由樹子(はだ ゆきこ)氏 Profile

アトリエ・アルケミスト主宰。1971年 新潟生まれ。私立玉川学園中学年/玉川大学通信教育部 講師 美術科教育学会 正会員

1971年〜 絵を描いたり、工作をしたり、小さい頃から“つくる”が大好きだった

小さい頃、夏休みや冬休みになると、両親の実家がある新潟で祖父母と過ごした。一緒に畑を歩きながら、草花の名前を教えてくれた祖母。果物や野菜をいっぱい乗せた手押し車を一緒に押して歩いてくれた祖父。朗らかな笑顔、やわらかな声のトーンは、今も忘れていない。美しい自然に囲まれ、ゆったり笑顔で暮らす姿を見て「おばあちゃんは世界と仲がいい」「おじいちゃんも世界と仲良しだ」と、幼い羽田は感じていた。

終業のチャイムが鳴るや否や児童館の工作室へ直行、ひたすら工作に没頭した小学校時代。家に帰っても、父親が持ち帰った電算用紙の裏に絵を描いたり、紙工作をしたり、美術は遊びの中にあった。

中学時代は優等生で過ごしたが、父の転勤のため希望の高校へ行けず、しょぼくれていた高校1年の冬、やけくそで生徒会に立候補、その後は忙しい高校生活を送った。大学進学を控えて進路に悩む。自立するには人文科学へ進むほうが良いと思ったが、迷った末、大好きな美術を選び、私立玉川大学文学部芸術学科に進学した。

1990年〜 やりたい分野と専攻分野のギャップに悩む学生たちの姿をみてアトリエの構想を描く

卒業制作のため朝から晩まで研究室に篭っていたある日、教授から「助手(助教員)をやってみる気はないか」と声を掛けられた。大手パンメーカーから内定をもらいデザインの仕事に就くつもりだったが、大学に残れば絵を描く時間が持てると考え、助手になることにした。助手として芸術学科の学生たちと過ごした4年間が、羽田の未来を変えた。

「入学してからやりたい分野に気付き進路変更ができず悩む学生さんから、たくさん相談を受けました。もし、その人たちが小さい頃に『つくることが好き』という大きな枠組みで絵画や工作、彫刻など、さまざまな制作を体験し、性に合う分野を見つけられていたら、もっと良い選択ができたのではないだろうかと思うようになりました」

その思いは日を追うごとに膨らみ、世の中にそういう場所がないなら自分がつくりたいと考え、助手の仕事を辞めた。

1998年〜 実現不可能と言われた「夢のようなアトリエ」を思い、悩み抜いた大学院時代

仕事を辞め、銀行で貯金を全額下ろし、お札の束を前に考えた。「有名美大卒でもない、経験も浅い20代の自分が、すぐに何かをできるとは思わない」、もう一度、美術教育を本気で学び直す必要があると考え、国立東京学芸大学大学院 教育学研究科修士課程美術教育専攻へ進学することを決めた。

学芸大で美術教育の勉強をする傍ら、時間を見つけては、いろいろな研究室を訪ね、温めていた「アトリエの青写真」について意見を求めた。その話を聞いた先生たちは「そんな夢みたいなアトリエができるなら、大学教員を辞めて自分がそれをやりたい」と賛同しつつ、「なぜ、そういうアトリエが存在しないかわかるか? それは実現不可能だからだよ」と、同じ答えを返した。

確かに、羽田が想定するアトリエをつくるには、水彩、油絵、日本画、アクリル、水墨、クラフト、粘土、彫刻、裁縫、“つくる”に関するありとあらゆる画材や道具を用意する必要がある。それだけでも膨大な費用だ。しかも、「一定の分野の技術が身に付く」といった、明確な成果を約束しないアトリエに、お金を払ってくれる奇特な人がいるとも思えなかった。

それでもアトリエを実現したいと1人悩み続けていた羽田を助けてくれたのは、同級生で、中国からの留学生のリン・ヤンだった。常にアグレッシブでエネルギッシュな彼女は「悩んでいたってしょうがない。やりたいならやればいいのよ」と、悩む羽田を励まし、著名な絵本作家の南塚直子先生や写真家のワン・ウーシェン先生と出会うきっかけをつくってくれた。卒業後も一緒に仕事をしよう、と物件探しも手伝ってくれた。

2001年 アトリエ・アルケミスト開設

物件探しを始めて3日目、坂の上に建つ一軒家に一目惚れし、契約を交わした。一緒にやろうと言って、伴走してくれたヤンは「アトリエは1人でやった方が純度を保てるよ」と言い、自分は他にやりたいことがあると言って去っていった。

坂の上の一軒家を「アトリエ・アルケミスト」と名付けた。一般に「錬金術師」と訳される言葉だが、その語源は分析心理学者のユングの言葉にある。

「ユングは『錬金術文書』を、金を作る魔術的な本ではなく、人の成長を錬金術になぞらえて示した文書だと言っています。「ひとは、経験や出会いを重ねることで「そのひと」になっていく」という過程を錬金術に見立てた成長の本なのだ、と。その言葉が好きで、普通の人が普通の人と出会い、好きなものを見つけることで、お互いが金のように輝き始める、そういう場所にしたいとの想いでアルケミストと名付けました。ロゴの『A』の文字は横棒が少し飛び出ています。ほんの少しずつでいいから、前へ進もう、という願いを、そこに込めています」と羽田は説明する。

このアトリエは、絵画や造形の技術を学ぶだけの教室ではなく、その人が好きな“つくる”を通して、自分と向き合い、人と出会い、自分を輝かせる場所なのである。

「何かを“つくる”ことは、自分の内面に耳を澄ませ、正解のない選択を繰り返す作業に他なりません。1つの色を選ぶことさえ、心との対話が必要です。私は、その行為そのものに“人を整える力”があると思っています。そういう場を提供することが、アトリエを始めた目的の1つです。もう1つの理由は、社会学でいう『サードプレイス(第3の場所)』をつくることでした。学校や職場、家庭のように社会的な役割を与えられた場ではなく、“つくることが好き”という共通項を持つ人に囲まれ、親しみを感じられる豊かな第3の場所になればいいと思っています」と、羽田は設立の趣旨を話す。

しかし、アトリエ開設から10カ月間、入会希望者は1人も現れなかった。貯金を食いつぶし、本屋やイラスト描きの仕事で生活費を稼ぎ、誰もいないアトリエで1人椅子に腰掛けて待ち続ける日々が続き、「もう辞めよう」と何度も考えた。

食事もろくに取れず青ざめた顔をしている羽田に気付いた玉川大学の助手時代の知り合いが、大学事務のアルバイトを紹介してくれた。翌年には通信教育部の美術講師の仕事に就くことができた。おかげでようやく生活基盤が安定した。

「うまい」という言葉の呪縛から解き放ってあげたい

凛とした面持ちの老婦人に連れられた小学生が、最初の入会者だった。著名な舞台美術家を父に持つ老婦人は、近所の画材屋でチラシを見つけ「孫を通わせたい」と男の子を入会させた。いつも電車の絵ばかり描いていた男の子は、高校生になるまでアトリエに通い続けた。

徐々に仲間が増えていく。気が付けば、アトリエの中には、絵を描いている子、粘土をこねている子、木を切っている子、寝転んで本を読んでいる子、デッサンにいそしむ大人など、“つくる”が好きな人たちの居場所になっていた。そして羽田の想いに共鳴するスタッフも増えていった。

アルケミストのスタッフには禁句がある。それは「うまい」の一言だ。

「『うまいね』と言った途端、好きなように描いていた人が、うまく描こうと意識し始めます。そのうちに『これうまい?』と聞くようになり、人の顔色を見ながら描き始めます。そうなると、もはや自分の心と向き合った絵ではなくなります。だから『色がきれいだね』とは言っても良いけれど『うまい』は禁句です。特に大人は、『うまくないと恥ずかしい』というバイアスに囚われてしまうと、制作を楽しむよりも「自分がどう見えるか」の方を気にしてしまいます。このバイアスを取り除くために、アルケミストでは心理学をもとに座る位置やテーブルの配置まで工夫を凝らしています」

座って作業する机、立って作業する机を用意し、対角線で人を配置して隣を見えにくくし、他人と比べられない制作ができる環境を整えた。

「同じものを描くと、どちらが「うまい」か比べてしまう人が出ます。それぞれが好きな制作をしていれば、絵を描いている隣で、木工が行われ、その隣で裁縫が進むといった、比較できない状態が自然に生まれます。そのひとの「好きな制作」はそのまま、そのひとの自己紹介がわりになりますので、お互い言葉を交わさなくてもその人となりがお互い伝わります。そうすることで、互いが安心して制作できるベースができ、いつしか同じものを描いても不要な「比べっこ」はなくなっていきます。また、自分とは違う制作に触れることでお互いの創発が生まれます」

10年前から急増したハサミをうまく使えない子どもたち

10年ほど前から、羽田は子どもたちがおかしいと感じ始めた。ハサミをうまく使えない、紐をうまく結べない子どもが、目に見えて増えてきたのである。状況を知りたくて文献などを調べる日々が続いた結果、スマートフォンが家庭に普及しはじめた時期と符合していることがわかった。

「今の子は、指先と画面のコミュニケーションに時間を取られ、生き物として本来行わなければならない動作のインプット経験の回数が少ないのです。身体経験の少なさは、コミュニケーション能力にも影響を与えると私は考えています。あくまでも現場の感覚に過ぎませんが、周りの子の話を聞けない、目を合わせて話せない、自分のことばかり話す子どもと、手指をうまく使えない子どもはかなりの確率で重複しています。でも、決して生き物として欠陥があるわけでも、不器用なわけでもありません。その証拠に1年ほど道具を使って“つくる”経験を重ねると、ハサミも上手に使えますし、他者とのコミュニケーションも活発になり、落ち着いてきます」

テクノロジーが生活と切り離せない時代だからこそ、生身の身体を使って心と身体のつながりを体験する機会を意識的につくる必要があるのかもしれない。そのことに気付いた羽田は身体、心、モノ、環境、他者とのやりとりの連なりにフォーカスしたカリキュラムを開発し、今まで以上に豊かな身体経験ができる機会を増やそうとしている。この取り組みを始めて以来、アルケミストには子どもを持つ親御さんからの問い合わせが殺到しているが、それに対応し切れていないことが、今1番の悩みだ。

FUTURE 美しいのは作品よりも、素の自分と向き合っている活動、その営み自体が美しい

「『普通の人が行う制作・アート』についてよく考えます。美術は『美しい術(わざ)』と書きますが、決して美しい絵を描いたり、鑑賞したりすることだけが美術ではないと思います。アーティストでない普通の人が制作した作品は、もちろん拙いものもあると思います。でも、美しいのは作品ではなく、素の自分と向き合っている活動、その営み自体が美しいのです。心から好きな制作に熱中している人の顔は本当にきれいです。私はそれを見るのが好きで、そういう人が集まった空間にいると、なんとも言えない心地よさを感じます。私がアトリエを立ち上げたのは、その空間に身を置き続けたかったことも大きな理由です」

坂の上の一軒家からは始まったアルケミストは、2019年に別の坂の上に引っ越し、20年目を迎えた。たくさんの“つくる”がアトリエを満たし、たくさんの感情と作品が交錯した。ここで出会い結婚したカップルは3組。小学生だった生徒が美術大学へ進学し、大人の顔で里帰りしてくる。学校には行けないけれど、アトリエだけは休まず来る子もいた。みんな美しい顔で“つくる”を楽しんだ。

現在、羽田はアルケミストを主宰する傍らで小鳥喫茶室を営み、料理教室やワークショップを開催し、非営利グループ「ツクルテ」を立ち上げてアート・自然・食をテーマに豊かな場を提供するなど、精力的に活動している。

「アトリエに興味を持ってくださる方がたくさんいらっしゃるのに、すべてを受け入れられず心を痛めています。その対策として、今、アトリエ活動に賛同してくださる方にトレーニングを受けていただき、自宅などを使ってアトリエ活動を行う『あっちこっちお家プロジェクト』を始めました。こういった場を増やし、もっとたくさんの人に“つくる”を体験していただけるようにしたいと思っています」と羽田は今後の展望を話す。

たった1人で始めた“つくる”で人をつなぐアトリエは、たくさんの人に磨かれて金となり、今まばゆい輝きを放つ。

年表

  • 羽田氏の
    年表

    社会の
    年表

  • 1971

    新潟県生まれ

    アボリジニアートが誕生

  • 1990

    私立玉川大学文学部芸術学科入学

    水戸芸術館開館

  • 1999

    国立東京学芸大学大学院 教育学研究科修士課程美術教育専攻 入学

    第1回福岡アジア美術トリエンナーレ開催

  • 2000

    アトリエ・アルケミスト開設

     

  • 2001

     

    せんだいメディアテーク開館

  • 2003

    玉川学園中学年にて講師

    森美術館開館

  • 2014

    アトリエ・アルケミストの付属施設として小鳥喫茶室開設

    ヨコハマ・パラトリエンナーレ開催

  • 2018

     

    artscape GINZAで拡張現実でアートを楽しむ「AAAR Vol.1」開催

  • 2019

    アトリエ移転(玉川学園8丁目から3丁目へ)