MY CHRONOLOGY~未来へ続く年表~
行燈旅館 女将 石井 敏子 氏

やわらかな行燈の灯りで世界をつなぐ下町の女将

洗練された建築デザインと日本文化を体験できる骨董品や茶会、生け花体験などの“おもてなし”で日本好きの外国人旅行客に愛されている行燈旅館。東日本大震災、コロナ禍など、度重なる試練に立たされても、なお楽しむことを忘れない女将、石井敏子の信念とは。

(文/井上 隆文 写真/信澤 邦彦)

石井 敏子(いしい としこ)氏 Profile

和モダンな佇まいと日本文化体験で世界的な人気を博す行燈旅館を経営する女将

1956年〜 店の仕事を手伝いたくなくて20歳で結婚

墨田区本所のうなぎ屋に生まれ、小さい頃から店を手伝わされた。事業が拡大して居酒屋を営むようになると、酔っ払い客にからかわれることが増え、店に出るのが嫌でしょうがなかった。高校卒業後、裁縫が上手だった母親の影響もあり、東京家政学院短期大学の被服科へ進学。2年生の後半になった頃、このまま卒業したら家を手伝わされると焦り「ジュエリーデザイナーになりたいから学校へ行かせてほしい」と懇願したが、母親に反対されて断念。どうしても店を手伝いたくなかった石井は「結婚して家を出ればいい」と考え、当時付き合っていた男性と20歳で結婚した。

1977年〜 “ドヤ街”で新婚生活の後、簡易宿泊所に住み込み

東京の山谷地区を中心に簡易宿泊所を十数軒経営する事業家の息子だった夫と、山谷のマンションで新婚生活をはじめた。当時、山谷地区は“ドヤ街”と呼ばれ、日中から路上で酒盛りが行われ、酔っ払いの喧嘩が日常茶飯事という治安の悪い町だった。小さい頃から「山谷は危ない」と教えられていたが、住んでみると「地元の人には悪さをしないから、怖い目に遭うことはなかったですね」と山谷の印象を話す。

1979年、夫が池袋の簡易宿泊所の支配人となったことを受けて家族で引っ越し。住み込みで宿を手伝いはじめる。

「きつい労働ではなかったですが、24時間拘束されるから旅行なんていけませんでした。お金を使う暇がないから、貯金ができたのはよかったけれど」と当時を振り返る。住み込みで4年間過ごした後、1981年に山谷で新居を建てて引っ越し。これを機に仕事を辞め、4人の子育てに専念する専業主婦となった。

1997年〜 外国人バックパッカー専門宿に改装し連日満室

子育てが一段落した頃、山谷の簡易宿泊所「ニュー紅陽」の経理を手伝ってほしいと頼まれて引き受けた。経理業務がわかるようになり、経営が傾いていることに気付いた。しかし、始め事業転換に賛成していた支配人は夜逃げをして疾走。自分で再建するしかないと考えた。以前、アメリカ人と結婚した義姉から夫が「東京は宿泊費が高いから、外国人バックパッカーの専門宿にすれば客が来るよ」といわれたことを思いだし、バックパッカー向けの宿をはじめる。

外国人を集客するため、成田空港で訪日観光客に宿を斡旋する団体ウェルカム・インに加盟しようと考えた。加盟条件となっているシャワー室の設置や館内案内の英語表記などの改修を行い申し込んだが、「山谷でしょ?」と言われて断られてしまう。納得がいかない石井は『一度施設を見てから判断してください!』と談判、その勢いに押された所長が視察に来てくれ、ようやく加盟が承認された。これが奏功し50%を切っていた稼働率が1年後には、連日満室となった。

しかし、バックパッカーの中には宿泊費を踏み倒して逃げてしまうようなマナーの悪い客もいて、石井は日夜客と喧嘩ばかりしていた。喧嘩するとき英語で言い返せないのが悔しくて神田外語学院に通い始めたのは、この頃である。

石井が仕事にのめりこみ、事業に成功していく一方、夫の方は病気で入院したり、兄弟とのいざこざもあって部屋に引きこもるようになり、完全に働く気を失ってしまう。石井は、離婚も覚悟の上で「自分のビジネスを始めよう」と決断した。

2003年 和モダンな建築、芸術、文化が楽しめる日本好き外国人の“聖地”

靴を脱いで畳敷きの部屋にあがり浴衣を着て布団を敷く、それでいて古臭くない、そんな旅館をつくりたいと当時付き合いのあった税理士に相談すると、設計士の友人を紹介してくれ、その夫である早稲田大学の教授で建築家の入江正之が「私につくらせてもらえないか」と自ら手を挙げてくれた。

「骨董に興味を抱いた私が、初めて購入した高額な骨董品が“有明行燈”でした。その色とデザインが気に入っていると話したら、入江先生がガラスで覆った外壁が部屋の灯でぼんやり浮かび上がる行燈をモチーフにしたデザインを考えてくださいました」

鉄骨5階建て、室内には金属製ルーバーやパンチングパネルなどで障子や格子を表現した和モダンな建築物は「行燈旅館」と名付けられた。

ロビーや階段などいたる所に石井が集めた骨董品が置かれ、ジャグジーにはポップアーティストが作成した有田焼の壁画が描かれ、壁に“ねぷた”の絵が飾られ、トイレでタイルアートが楽しめ、1階には1936年製造の赤い水屋箪笥が存在感を放つ。随所に日本の美が散りばめられた宝箱のような行燈旅館は、開業以来、日本好き外国人の“聖地”となっている。

ゴスロリを着て原宿に立つ夢が叶ったと喜ぶ女の子、101号室でプロポーズした記念日に毎年泊まりに来る夫婦、茶道体験に感動しMy抹茶とMy茶筅を持ち歩く男性、小さな和室を見て「これが詫び寂びか」と感動したフランス人、旅館で意気投合し国境を超えた友情を育んだデンマーク人とスウェーデン人など、たくさんの出会いの物語が行燈旅館から生まれた。

2011年 震災で客足が途絶える。体験教室やイベントを企画して立て直し

2011年3月11日、東日本大震災が発生。福島第一原子力発電所の事故により放射性物質が放出されたニュースが流れるや否や、宿泊客が血相を変えて帰国、旅館はガラガラになった。

「3年間客足が戻りませんでした。インバウンドに頼れなくなったので、何か特徴を出さなければいけないと思い、はじめたのが日本文化の体験教室です」

お茶会は以前からあったが、生け花や、折り紙、着物の着付け、習字体験、日本酒利き酒ツアーなど、日本文化を手軽に楽しめる体験イベントを次々立ち上げた。生け花は当初、花屋さんに生けてもらっていたが、「自分で生けたい」と小原流に入門して腕を磨き、教える立場になった。

他にも日本の風情を体験できる「下町の銭湯巡り」や「下町B級グルメ」「三ノ輪周辺観光」など地域密着型のツアーもはじめた。こうした地道な取り組みが実を結び、再び行燈旅館は訪日外国人観光客で連日満室となる。

2020年 “石井家のご飯”をはじめるも、コロナ禍で訪日観光客激減

2020年2月4日、1階を改装し骨董茶屋「福行燈」をオープン。古材を使った檜のお茶席、欅の一枚板と足踏みミシン台を組み合わせたバーカウンター、松のステンドグラス、水屋箪笥、手づくりのランタンタイル、うさぎの絵のガラスを使った照明など、大好きなものを集めて空間をつくりあげ、その空間で家庭料理の提供をはじめた。そのサービスをはじめたのは「日本の家庭料理はどこで食べられるのか」という質問が非常に多いことが理由だった。

「アジの干物にご飯と味噌汁というのは典型的な和食ですけど、それは日本の家庭料理ではありません。今の日本の家庭料理は和洋中なんでもアレンジされています。その中に出汁を上手に使い、旬の野菜を取り入れていることが日本の家庭料理の特徴ですが、それを食べさせてくれる店はほとんどありません。だから、私が“石井家のご飯”を手作りして提供するサービスをはじめたのです」

“石井家のご飯”は、開始早々から大人気を博した。オーストラリアの家族は「いろいろなお店で日本食を食べたけれど、ここが一番美味しい」と滞在期間中、毎日旅館でご飯を食べた。フランス人観光客は「ここは日本の小さなオーベルジュ」とコメントを書き込んだ。

「オーベルジュなんて言い過ぎだけど、そんな風にいわれるとうれしいですね」と石井も満更ではない。

FUTURE 行燈旅館は私の生きがい。仕事なのか私生活なのかわからない

コロナ禍の影響で2020年春以降、客足はぱったり途絶えた。最悪の事態を前にしても石井は「一番ダメな時が一番大事。いろいろ考えてジタバタすることが、あとになって利いてくるって、今までの経験でわかっています」と前向きに受け止める。

現実を直視し、未来に目を向け、大手電気メーカー、IT企業と協業して大型モニターを設置し、旅館にいながら非接触のオンラインでツアーや飲食店の予約、土産品が購入できるサービスを計画、10月から始動予定だ。さらに写真の撮り方の講習会と実地体験モニターツアーの企画を提案したり、観光客が撮影した地域の写真をシェアし地域創生につなげるプランを観光庁のコンテストに応募したり、未来を見据えて試行錯誤を続ける。

行燈旅館に対する“想い”を問うと、石井は「行燈旅館は、私の生きがい。もう仕事なのか私生活なのか、区別がつかなくなっています。料理も骨董も生け花もお茶も旅行も大好きで、それが仕事になっているから、お客さんが来ても来なくても毎日を楽しんでいます」と笑顔で話してくれた。

行燈旅館のつくりだす温かな灯りは、今日も明日も消えることなくやさしく世界を包み込む。

年表

  • 石井氏の
    出来事

    社会の
    出来事

  • 1956

    墨田区本所に生まれる

    観光事業振興5カ年計画が策定される

  • 1977

    結婚、山谷で暮らしはじめる

    第1回日本国際観光会議(JATAコングレス)開催

  • 1981

    国連世界観光機関(UNWTO)が9月27日を
    「世界観光の日」に定める

  • 1982

    新居を建てて専業主婦になる

  • 1995

    「ニュー紅陽」で経理の仕事に就く

    海外渡航者数1500万人を突破

  • 2003

    行燈旅館を開業

    小泉政権が「観光立国」を宣言

  • 2011

    東日本大震災の影響で客がゼロに

    訪日外国人旅行客前年比27.8%減と過去最大の下落率

  • 2020

    骨董茶屋「福行燈」オープン

    コロナ禍でオリンピック・パラリンピック大会延期