MY CHRONOLOGY~未来へ続く年表~
株式会社 宝研堂/製硯師 青栁 貴史 氏

硯は自然の一部を切り抜いた美しい景色

中国の伝統的作硯技術と思想を基盤として、硯を造形する技術者を「製硯師せいけんし」と呼ぶ。どれだけ優れた硯を造形しても決して名を残すことのない作硯の求道者、青栁貴史は、何を思い硯石と向き合うのか。

(文/井上 隆文 写真/信澤 邦彦)

株式会社 宝研堂/製硯師 青栁 貴史 氏 profile

書道用品専門店「宝研堂」内硯工房の四代目製硯師

1930~ 独学で道を切り拓いた二代目製硯師、青栁保男

 硯づくりに生涯を捧げた男、宝研堂二代目、青栁保男。太平洋戦争から帰還した保男は、戦死した兄・好男が開業した文房具店「宝研堂」を継ぐ。当時、日本には硯を修繕できる職人がほとんどいなかったこともあり、保男は独学で古硯を修繕し販売をはじめる。1949年、後に三代目を継ぐ彰男が生まれる。彰男は、名門の開成中学・高等学校を卒業したが、大学へ進まず硯の道に入った。当時の宝研堂は、小学校に卸す書道用具や文房具と、書家向けの道具の両方を扱っていたが、貴史が生まれた1979年には書家向けの道具専門店へ転身していた。

 製硯師の父と書家の両親を持つ母の間に生まれた貴史は、物心ついたときには硯の石で遊んでおり、将来はこの道へ進むだろうと漠然と考えていたという。

1997~ 祖父の生き様と死に様を目の当たりにし、製硯師の道へ

 「貴史、そこの鑿(のみ)を取ってくれ。彫り方を教えてやる」と、深夜、突然保男が声を上げた。しかし、そこは病院の個室、鑿などあるはずはない。看病していた18歳の貴史は、痛み止めのモルヒネで意識が朦朧としている祖父を気遣い、鑿を手渡す振りをした。「麻子坑はこうやれ」と言い終わるか否かのうちに、再び保男は眠りにつく。やがて朝を迎え、「また来るから続きを教えてね」と声を掛け、貴史は病室を後にした。その3日後、保男は永眠する。

 「いずれ硯の道に進むと決めていましたが、30歳までは他で働くか、絵描きでもしようかと思っていました。しかし、祖父の死を受けて意識が変わりました。戦争を経験した一人の男が生涯を捧げた硯づくり。その世界を生き切り、死に切った祖父の姿を目の当たりにして、覚悟を決めました」

 中国語や中国文化を学ぶために入学した大東文化大学の中国語学科を中退し、宝研堂へ入社したいと告げると、父・彰男は「わかった」と頷いた。

2000~ 中国で“無名の名工”の造形哲学を我が身に投影する

 彰男は、最低限のことは教えるが、基本的には背中を見て学べというタイプの師匠だった。最初のうちは、硯を彫らせてもらえず書道用品の仕入れ、陳列、販売など小売業の基本を叩き込まれた。硯に触れられるのは店が閉まってからだ。閉店後、父の書庫から文献を引っ張り出し、床に石を並べ、石の種類や硯の様式を学んだ。

 硯をつくる職業には、製硯師以外に「硯作家」がある。硯作家は、採石地付近に工房を構え、現地石材の魅力を生かし「作品」を造形する。作家という名が付くように、作品には作者の銘を彫る。一方、製硯師は、あらゆる採石地から石を採り、硯をつくり、流通をプロデュースし、古い硯の造形をつくりかえ(改刻)、修理も手掛ける「硯に関して何でもする技術者」であり、硯に名を残すことはない。

 古来、硯は文房四宝(筆墨硯紙)の王様といわれ、古くは唐の時代から皇帝に献上される至高の筆記具だった。今も当時の名硯が残っているが、いずれの硯にも作者の名は刻まれていない。製硯師は、そうした“無名の名工”の伝統的作硯技術と思想を現代に受け継ぐ存在なのである。

 資料も残っていない“無名の名工”の名硯を修理・再現するには、当時、名工が何を思い、どんな鉱脈の石で、なぜその造形をしたのか、頭と体に叩き込まなくてはならない。そのために貴史は、何度も何度も中国へ渡り、現地を調査した。

 「中国における硯は、侍の刀と同様の存在といえます。鑑賞に堪える美を備えながら、道具としての機能に優れ、威厳と個性があります。その姿形を、どれだけ上手に真似ることができても、それは硯に似た石に過ぎません。その本質を知るために、僕は何度も現地を訪れ、原石を育んだ自然を感じ、同じ空気を吸い、石の音を聞き、指で感触を覚え、口に含み味わい、人々と触れ合いました」

2005~ 素材の純度を濁すことなく生かしきる石の調理人

 初めて硯のオーダーを受けたのは、26歳のときだった。その書家は、以前、来店して硯を探していたとき、熱心に接客してくれた貴史に好感を持ち、「ぜひ、あなたに改刻してほしい」と直方体の硯板を持ち込んだのだ。

 その書家の要望に応えるべく、貴史は誠心誠意仕事にあたり、長方形のシンプルな「淌池硯」を仕上げた。

 「父の了承を得てお渡ししているので、宝研堂の名に恥じない硯に仕上がっているはずですが、やはりお客さまにお渡しするときは不安でいっぱいでした。その後、お客さまから『とても使いやすい硯だ』とお手紙をいただいたときは、本当にうれしかったですね」

 製硯師にとって“良い硯”とは、いったいどのようなものなのか。「それは年代によって変わるもので、これからも変わり続けていく」と貴史は言う。

 墨池と縁のみで構成された機能美が是とされた時代もあれば、彫刻の美しさを競った時代もあり、近年は、岩肌や石材がまとう自然美を残すことが価値を持つと評価されている。

 「共通して言える“良い硯”の定義は、素材自体の純度を濁すことなく生かしきっていることです。硯とは道具であると同時に、自然の一部を切り抜いた美しい景色です。これは1,500年前から共有されてきた硯の本質です。それを踏まえて言うならば、素材の純度を生かしきれない製硯師は、石の調理人として不合格ということです」

2018~ 日常生活に、墨を磨り毛筆でしたためる豊かな時間を

 2018年2月、二代目保男、三代目彰男、四代目貴史と継承されてきた製硯師の仕事を一堂に集めた個展「青栁派の硯展」が開催された。交通の便もさほど良くない会場にもかかわらず約2週間に1,300人もの来場者が押し寄せた。来場者の半数は書道関係者だが、それ以外は書道未経験者だった。会場入口に芳名帳とさまざまな硯を置き、来場者が墨を磨って記帳できる場を用意。鑑賞するだけではなく、筆記具として硯を使ってもらえるよう工夫を凝らした。

 「硯ってこんなに美しいものなんですね」、「30年ぶりに墨を磨って字を書いてみたら楽しかった」、「地球から採れた硯は、輝きこそ違えど、宝石と同じですね」といった、さまざまな感想が寄せられたことに対し、書道関係者だけではなく、一般の来場者に硯の魅力、毛筆の楽しさが伝わったのだとしたら、個展は成功だと貴史は言う。

 「毛筆って一字のボリュームが大きいから、1枚の紙に書ける文字数が活字より少ないんです。だから、どんな言葉を選ぼうか、すごく頭を使って書かなくてはいけません。忙しい時代だからこそ、相手の顔を思い浮かべながらゆっくり墨を磨り、手紙をしたためる、そういう豊かな時間に意味があると思うんです。毛筆の良さを伝え、日常生活の中に墨を磨り、筆を握る機会が増えるよう提案することも、僕ら製硯師の役割ではないかと思っています」

FUTURE未来へ 時代背景をまとう硯式の考案も、今を生きる製硯師の仕事

 製硯師の本質は、“無名の名工”がつくりあげた作硯技術と思想を基盤として、できるかぎり正確に当時の硯を修理または再現する仕事だが、新しい硯を考案しないというわけではない。

 「先ほど、良い硯の定義は時代によって違うと話しましたが、長い歴史の中で、硯はその時代の文化や流行をまとって何度も様式を変えてきました。名前は残っていませんが、いつの時代も新しい硯式を考案する名工が必ず存在していたのです。製硯師が、無名の名工の思想と技術を継ぐ存在であるならば、当然、現代の空気をまとった硯を考案することも重要な仕事といえます。こうした考えのもと、今、現代だからこそできる新しい硯づくりに取り掛かっています。そのひとつが隕石を使った硯です。南アフリカのザンビアに落下した隕石を入手し、実際に硯をつくってみました。非常に硬くて刃物が通らず、研磨具だけで仕上げましたが、完成してみると、今までに体験したことのない磨り心地があり、非常に興味深い硯になりました。隕石は地球にない材料ですが、その姿には地球外の自然の景色が宿っているので、出来る限りそれを生かして作硯してみました。

 次は、月の石で硯をつくってみたいと思っています。単なる興味ではなく、毛筆文化を広げるためにも意味があると思うからです。『月の石でつくった硯で手紙を書いてみませんか?』なんていうキャッチコピーなら、若い人に響くかもしれないじゃないですか。それがきっかけで、新しい毛筆文化が生まれたらすばらしいと思うんです。でも、月の石が本当に彫れるかどうか、やってみないとわかりません。彫れなかったとしても、失敗という情報を残せれば、後世の製硯師がその痕跡を辿り、新たな硯づくりに生かせると思うのです。それも、今を生きる製硯師の仕事ではないかと思っています」

 そう言って青栁貴史は隕石の硯を手に、未来の硯に思いを馳せた。

宝研堂の情報はこちらを参照ください

http://houkendo.co.jp/

年表

  • 青栁の
    出来事

    社会の
    出来事

  • 1930

    初代青栁好男
    山梨で青栁宝研堂を創業

    日本書道作振会と
    戊辰書道会が統合して
    新団体「泰東書道院」を結成

  • 1935

    駒形に会社を移転

    「中部日本書道連盟」
    第1回展開催

  • 1944

    青栁好男戦死

    「日展」戦時特別展開催

  • 1945

    祖父・青栁保男
    終戦後南京より帰国
    二代目を継ぐ

    終戦

  • 1949

    父・青栁彰男誕生

    「日本総合書芸展」
    第1回公募展を開催

  • 1953

    法人会社設立

    ・「西日本書道通信学会」創立
    ・前衛派の先駆け、大澤雅休没

  • 1969

    株式会社宝研堂へ社名変更

    大東文化大学
    書道文化センター開設

  • 1979

    青栁貴史誕生

    第1回「日本書道学院展」開催

  • 1994

    父・青栁彰男
    代表取締役社長就任

    甲州雨畑硯が山梨県の
    郷土伝統工芸品に認定される

  • 1995

    16歳の時、
    初めて祖父・保男から
    硯づくりを習う

  • 1997

    祖父・青栁保男 他界

  • 2000

    大学を中退し宝研堂へ入社

    山梨県に雨畑硯の里
    「硯匠庵」開館

  • 2005

    初めて硯のオーダーを受ける

    後の書道パフォーマンス
    甲子園につながる南海放送
    「書道ガールズ」放送

  • 2014

    夏目漱石の硯を鑑定、修復

    紫舟 書の彫刻
    フランス国民美術協会展2014
    最高位金賞(審査員賞金賞)・
    SNBA金賞 受賞

  • 2017

    ・史上初、北海道にて
    硯石を採石
    ・夏目漱石愛用硯の復刻製作

    日中書家交流鑑賞会を
    東京で開催

  • 2018

    「青栁派の硯展」開催

    五島美術館で
    「館蔵 文房具の至宝展
    -机上の小宇宙-」開催

(コンセンサス 2018年12月-2019年1月号 掲載)