MY CHRONOLOGY~未来へ続く年表~
Fantagista21 代表 メートル・ドテル 宮崎 辰 氏

お客さまが何を求めて来店されたのか、言葉にしなくてもわかる。

フレンチレストランにおいて、ゲストを迎え、オーダーを取り、テーブルの前で料理をカットして盛り付け、心地よい時間を演出するサービスの統括責任者「メートル・ドテル」。日本人で初めて世界一のメートル・ドテルとなった宮崎辰が考えるサービスの本質とは。

(文/井上 隆文 写真/信澤 邦彦)

Fantagista21 代表 メートル・ドテル 宮崎 辰 氏 profile

フレンチレストランのテーブルサービスを競う世界大会で優勝した世界一のサービスマン。

1976~ 自分が創りだしたものが、誰かの喜びになることがうれしい

 ゼロから何かを創るのが大好きな少年だった。プラモデルを組み立てれば、さらに発泡スチロールを削り、山から拾ってきた木を使い、ジオラマをつくり、自分だけの世界を創造した。小学校四年生のとき、家庭科でつくった手打ちうどんを家族にも食べさせたくて、粉を練って足で踏み、すりこぎでのばして自家製うどんをつく り、ふるまった。「おいしい」と喜んでもらえることが何よりうれしかった。本気で料理人を目指すきっかけとなった料理はアンチョビパスタだった。

 「中学生のとき、父親がつくってくれたアンチョビパスタが衝撃的においしくて、食べた瞬間、将来こういう料理をつくる料理人になろうと決意しました」

 高校卒業後、辻調グループのエコール・キュリネール国立(現・エコール 辻 東京)に入学して同校のフランス校へ留学した。

1997~ 「これからはサービスの時代が来る」を信じてサービスの道へ

 1年間のフランス留学を終えて帰国、初めて勤めた国分寺のフレンチレストランで、人生を変える運命的な出会いが待っていた。タキシードをビシッと着こなし、欧米人のようなダイナミックな所作でサービスを行う、その男の名は矢野智之。日本一のサービスマンを決めるコンクール「メートル・ド・セルヴィス杯」を最年少で制したメートル・ドテルだ。矢野が常々口にしていた「スターシェフがたくさん生まれ、次にソムリエが脚光を浴びた。これからはサービスの時代が来る」との言葉に心を動かされ、宮崎は料理人からサービスマンへの方向転換を決意する。

 「10年後、20年後の将来像なんて想像もできない状況でしたが、矢野さんの言葉を信じ、自分がサービスの世界のパイオニアになると心に誓いました」

1999~ 日本一のサービスマンを競う大会に初出場で準優勝

 矢野が港区のレストランへ移り、支配人になる際に「日本一のレストランをつくるから、お前も来い」と誘われて店を移った。その店で、もう一人の恩師となる坂井ひろしと出会う。宮崎は坂井の薫陶を受け、サービスマンに必要な心構えと技術を身につけた。翌年、日本ソムリエ協会の認定ソムリエ資格に一発合格。その後、六本木「グランド ハイアット 東京」、銀座「オストラル」、南青山「ピエール・ガニェール・ア・東京」で経験を積み、着実に階段を上がっていった。

 一流のメートル・ドテルに必要な能力は、細やかな観察力だと宮崎は言う。「お客さまが何を求めているのかわからなければ、料理やワインをお勧めできませんし、サービス方針も決まりません。それを知るために、お電話いただいたときの声のトーンやテンション、話すスピードからご来店された際の第一声、服装、歩き方まで、五感を駆使してすべての情報をインプットし、その上でオーダーを伺います。フランスの美食家ブリア・サヴァランが“普段食べているものを言ってみたまえ。さすれば、あなたが何者か当てましょう”と言ったように、オーダーを伺えば、その人の生活習慣までおおよそ推察できます。そこまで把握してサービスを提供することが、100点の料理を120点、130点に変え、お客さまの満足につながると考えています」

 2006年、かねてより出場を希望していた「メートル・ド・セルヴィス杯」に挑戦するチャンスが巡ってくる。この大会で宮崎は、初出場ながら見事準優勝に輝く。

 「最初は優勝できると思っていなかったのですが、予選・準決勝を終え、決勝へ進んだ時点で、いつも通りやれば優勝を狙えると思っていたので、準優勝と発表されたときには、特に驚きはありませんでした」

2008~ 苦しみの果てに必死でつかみとった日本一の栄冠

 2年後に開催された第13回の「メートル・ド・セルヴィス杯」では、優勝候補筆頭と目されながら3位に終わり、大きな失意を味わう。ここまできて日本一にならずに終わるわけにはいかないと奮起。第14回大会の優勝をノルマとし、その後の2年間は、できるかぎりの時間と給料を練習に注ぎ込んだ。弱点だったデクパージュ(鴨や羊などの肉を顧客の前で切り分ける技術)の腕を高めるため、フランス料理文化センターの講習会に通い、自費で食材を買い込み、自宅でビデオに撮りながら練習を続けた。

 大会を数カ月後に控えたある日、予期せぬ知らせが届く。“世紀最高の料理人”と呼ばれるジョエル・ロブションが日本で展開する「シャトーレストラン ジョエル・ロブション」からメートル・ドテルとして働かないかとのオファーだった。大会前に職場を移るリスクや、最高峰の三つ星レストランで通用するのかという不安に一瞬躊躇したが、このチャンスを逃す手はないとオファーを承諾した。

 2010年9月1日、ジョエル・ロブションに初出勤。就任初日、全スタッフを前に支配人は「次回のコンクールで優勝間違いなしの宮崎君をメートル・ドテルに迎え、光栄に思う」と宮崎を紹介する。三つ星レストランを支える一流スタッフの矢のような視線が、一斉に宮崎に注がれる。伝統と格式を重んじる同店において、外部から33歳という若さでメートル・ドテルに就くことは異例中の異例。「どれほどのものか見せてもらおうじゃないか」という心の声が聞こえてくるようで、宮崎は針のむしろに座らされているように感じた。

 「店のしきたりもスタッフの名前も何もわからないのに、2日目には支配人から『好きにしていいよ』と言われ、その瞬間、心が折れました」

 あまりの重圧に布団から起き上がれなくなり、毎日、薬を飲みながら這うようにして仕事へ出かけた。

 「本気で辞めたいと思いました。でも、今、辞めたら積み重ねてきた13年間のすべてを失うと考え、歯を食いしばって耐えました。苦しい日々でしたが、世の中には明日食べるものさえない人や命の危険にさらされている人もいるわけで、それに比べたら何てことはない。別に殺されるわけじゃあるまいしと開き直り、なんとか日々をやり過ごしました」

 そんな苦しい状況の中でも、応援してくれる人たちに支えられながら休むことなく練習を続け、ついに大会当日を迎える。そして、13年間、憧れ続けた「日本一のサービスマン」の栄冠を手に入れた。

2010~ 誰にでもできる当たり前をやり続けることが世界一への道

写真提供:有限会社アートファイブ

 日本一になったことで仕事も順調に回り出す。さらに、2012年に日本で開催されるサービスマン世界一を決める「クープ・ジョルジュ・バティスト」に日本代表として出場することが確定した。大会に向けて宮崎は、さらに高いハードルを課す。午前0時に仕事を終えると朝5時までカクテルづくりやワインのテイスティングを学び、休日は自宅でデクパージュの練習をし、テーブルセッティングの腕を磨くためフラワーマネジメント教室にも通った。約1年半、睡眠時間約2~3時間と心身ともにギリギリの状態で仕事と練習に励んだ。

 そして迎えた世界大会。種目は、前菜、魚料理、肉料理、デザート、コーヒー、カクテル、オーダーテイク、ワイン・アルコールのテイスティング、テーブルセッティングの9つ。それぞれに制限時間が設定され、各国の審査員による厳正な審査が行われる。世界14カ国を代表するサービスマン24名が、3日間にわたり腕を競い合った。

 第一種目で、予定より20分も早く競技が開始されたことに動揺し、前菜の盛り付けが雑になるミスを犯してしまったが、その後は落ち着きを取り戻す。デザートの課題「パイナップルのスパイラル(皮をむき、芽をスパイラル状に切り、スライスした後にフランベ)」では、波打つようなナイフ使いで、芽をつなげたまま一気に切り離す切り方を披露、これに感銘したスペイン人の審査員が立ち上がり「ブラボー」と拍手を送る。

 魚料理の課題「サーモンのタルタル(皮をはいで角切りにし、味付けをして盛り付ける)」では、他国の選手が皮をはいでから切るのに対し、皮をつけたまま網の目のようにカットし、最後に皮をスパッと切り離し、ダイス状の切り身が広がる美しい技を見せ、審査員の驚嘆を誘った。

 「音も立てず素早くかつ正確に切れ目を入れ、最後に刃を滑らすようにスパッと身を切り出す、日本的な表現ができたと思います。切り方だけではなく、味付けも工夫しました。審査員の方々は同じ料理を何度も食べて飽きていると思ったので、レモンを多めに絞って酸味を立たせ、しっかり塩を効かせ、おいしく召し上がっていただけるようにしました。コンクール用の特別な技術を披露したわけではなく、いつもお店でやっている、お客さまの気持ちを察して、当たり前のサービスを丁寧に提供することだけを考えました」

 すべての競技を終え、順位発表がはじまった。3位にフランス代表、2位にデンマーク代表の名が呼ばれ、世界の頂点に立つメートル・ドテルとして宮崎の名前が読み上げられた。

 「その瞬間に湧き上がってきたのは、喜びよりも『終わった』という気持ちでした。13年間の出来事が頭の中を駆け巡り、応援してくれた人たちへの感謝の思いが湧き上がり、涙を止められませんでした」

FUTURE未来へ サービスマンの価値を高め、憧れられる職業へ

 世界一になったことで、メディアからの取材や講演、学生の指導など、さまざまな依頼が舞い込む。宮崎は、店を続けながら、そうした依頼に応えることは難しいと考え、ジョエル・ロブションを勇退し、「Fantagista21」を立ち上げた。現在はフリーのメートル・ドテルとしてさまざまな店でサービスを提供するとともに、後進の指導や育成、講演などの活動に取り組んでいる。

 「本音を言えば、ロブションは辞めたくなかったんですよ。でも、世界一のサービスマンになった以上、自分にはメートル・ドテルという職業を世に広める責任があると考え、新たな道を歩む決意をしました。今でも多くのレストランにおけるサービスマンの地位は低いままで、給与水準も高いとはいえません。この現状を打破し、若い世代がサービスマンになりたいと思える環境をつくりたいと思っています。その夢を叶えるため、近々サービスマンを育成する学校を立ち上げる予定です」と宮崎は、自身の役割と今後の展望を語る。

 そんな大きな夢を語る一方で、宮崎は今も都合をつけてはレストランに立ちサービスを提供する。「この仕事をしていて一番うれしいのは、お客さまから『あなたに会いに来た』そして『ありがとう』という言葉をいただいた瞬間です。その瞬間に何度も出会いたいので、私はこれからも現場に立ち続けます」と宮崎は笑顔で話し、その日も世界一のサービスを提供するべく、足早にインタビュー会場を去っていった。

年表

  • 宮崎の
    出来事

    社会の
    出来事

  • 1976

    国分寺市に生まれる

    ジョエル・ロブション氏が
    初来日

  • 1995

    エコール・キュリネール国立
    入学

    第8回世界最優秀
    ソムリエコンクール東京大会
    田崎真也氏優勝

  • 1996

    同校フランス校へ留学

    ジョエル・ロブションが
    現役引退を宣言

  • 1997

    国分寺「シェ ジョルジュ・
    マルソー」入社

    ジャック・マキシマンが
    「ディアマン・ローズ」を開店

  • 1999

    芝「クレッセント」
    (ミシュラン二つ星)入社

    アラン・デュカス・
    フォルマシヨン〈ADF〉設立

  • 2000

    日本ソムリエ協会認定
    ソムリエ資格を取得

    マルク・ヴェイラが
    「ラ・フェルム・ドゥ・
    モン・ペール」を開店

  • 2001

    六本木「グランド
    ハイアット 東京」入社

  • 2004

    銀座「オストラル」入社

    ポール・ボキューズ氏が
    レジオンドヌール勲章
    コマンドゥール受勲

  • 2005

    南青山「ピエール・
    ガニェール・ア・東京」入社

    「ピエール・ガニェール・
    ア・東京」開店

  • 2006

    メートル・ド・セルヴィス杯
    (第12回)2位

  • 2007

    ミシュラン・ガイド東京
    創刊

  • 2008

    メートル・ド・セルヴィス杯
    (第13回)3位

  • 2010

    ・恵比寿「シャトーレストラン
    ジョエル・ロブション」入社
    ・メートル・ド・セルヴィス杯
    (第14回)優勝
    ・観光庁長官賞を受賞

    イタリア「L’ESPRESSO」
    レストランガイドの年間最優秀
    ソムリエ賞を林基就氏が受賞

  • 2012

    クープ・ジョルジュ・
    バティスト主催
    サーヴィス世界コンクール
    優勝

  • 2013

    「シャトーレストラン
    ジョエル・ロブション」
    プルミエ・メートル・ドテルに
    就任

    「サロン・デュ・ショコラ」で
    辻口博啓氏が
    最高評価を獲得

  • 2017

    ・「シャトーレストラン ジョエル・
    ロブション」の職を勇退
    ・メートルドセルヴィスの会 幹事
    ・辻調理師専門学校グループ
    非常勤講師

  • 2018

    フランス料理文化センター
    サービス講師

(コンセンサス 2018年5月-6月号 掲載)