MY CHRONOLOGY~未来へ続く年表~
野田岩五代目 店主 金本 兼次郎 氏

革新なくして伝統は守れない。

寛政年間に創業されたうなぎの老舗「野田岩」。五代目を継いだ金本兼次郎氏は、百貨店や海外への出店、うなぎとワインのマリアージュ提案、真空パック販売などの改革を次々に仕掛け、二百年以上続く老舗の看板を守り続けている。

(文/井上 隆文 写真/信澤 邦彦)

野田岩五代目 店主 金本 兼次郎 氏 profile

1928年東京生まれ。30歳で五代目を継ぎ、革新的な取り組みを続けて業界を覆した伝説的なうなぎ職人。

1789~ 二百年以上の歴史を受け継ぐ老舗うなぎ屋「野田岩」

明治時代発行の「食通番附」で三番目に掲載

 野田岩が誕生したのは寛政年間(1789~1801年)、第十一代将軍徳川家斉の時代である。初代店主の岩次郎は、当代きっての人気うなぎ屋であった「狐うなぎ」で修業を積み、野田岩の屋号で、現在の本店がある東京都港区飯倉に店を構えた。続く二代目は商売に励み、野田岩を繁盛店と呼ばれるまでに育てた。三代目は少しばかり遊び人だったこともあり、経営が厳しくなったと伝えられている。その後、第一次世界大戦、関東大震災と受難の時代を越えた四代目勝次郎は「うなぎ屋のほかにやれる商売もなし」と奮闘し、現在の野田岩の基盤をつくりあげた。

1928~ 商売に必要なことを教えてくれた厳格な父へ

 8人兄弟の長男として兼次郎が生まれる。幼い頃から「野田岩の坊ちゃん」「五代目」と呼ばれ、店を継ぐことを運命づけられていた。小学生の頃から父に連れられうなぎ問屋や河岸に足を運び、仕入れのコツを教わる。「父は、いつも『何事も早くしなさい』と私に言いました。その言葉に従い、早く仕入れに出かけるため朝5時に起きると、父は既に起きていて『遅い』と怒られました。悔しいので翌日は父より早い朝3時に起きましたが、父は褒めてくれません。店で仕事をしているときも『下準備は済んでるのか』と聞かれて、『まだ済んでません』と答えようものなら『この間抜け!』と怒鳴られました。そんな日々が続いたため、いつしか私は何事も先回りして行動を起こすようになっていました。父は私の性格を見抜き、商売に必要なこと、生きていくために大切なことを、厳しい言葉を投げながら教えて革新なくして くれたのですね」

1945~ 空襲で店舗焼失。戦後バラック小屋で店舗を再開

1950年に建設した店舗の模型

 1944年9月25日、東京への空襲で自宅が被弾。「その日は、父が『今夜は何か変だから2階で寝ない方がいい』と言ってくれたおかげで、私は命を救われました。あの日、いつものように2階で寝ていたら、今の私はなかったでしょう」

 その後、戦火が激しくなり千葉へ疎開。1945年5月25日の大空襲で自宅兼店舗は瓦礫と化した。幸いにも重箱や醤油、みりん、調理器具が無傷で残っていたため、バラック小屋を建てて野田岩を再開できた。しばらくは客の入りが悪く、御用聞きのように馴染みの客を訪ねて出張販売して歩いたこともあったという。

 「1946年8月1日の出来事を、私は今も忘れられません。終戦から1年後、陽射しが照りつけ暑気払いにうなぎを食べるにはもってこいの日でした。しかし、この日のお客さまはゼロ。ただの1枚も売れませんでした。このとき、私は思いました。お客さまが来て当たり前などと思ってはいけない。お客さまにご来店いただくことが、どれほどありがたいか、その感謝の気持ちを生涯忘れてはならないと」

 その後も汗を流して誠実な商売を続け、1950年ようやくバラック小屋を撤去し、新店舗を建設することができた。

 「当時『麻布大和田』という競合のうなぎ屋があり、こちらは野田岩の三倍以上の価格なのに上流階級に贔屓され、繁盛していました。父は味では負けていないという自信があっただけに悔しくてならなかったようです。そのとき父は、大和田さんの店に出かけタレの匂いを嗅いで研究し、甘い味が人気の秘訣であることを突きとめました。当時の野田岩は、昔ながらの醤油とみりんを半々に使う甘みを抑えたタレでした。老舗の味を変えるのは勇気のいることでしたが、父はみりんの量を増やしタレを甘くしました。百年以上続く味を変えるなんて常識では考えられないことでしたが、父は改革に踏み切ったのです。今思えば、これが野田岩の歴史における転換点でした」と金本は伝統を守ることの難しさを話す。

1958~ 天然うなぎが手に入らず冬季休業を決断

美しい色合いに焼かれ、口に含むと
溶けるようにやわらかいうなぎののったうな重

 1958年、30歳で五代目を継承。ちょうどその頃から天然うなぎの流通量が減りはじめた。漁獲量の減少ではなく、河川の汚染などが影響し、収穫しても病気で出荷までに死んでしまうことが原因だった。「天然うなぎは野田岩の命です。何とかしてうなぎを確保するために、300坪の池を購入し岡山で1400キロのうなぎを買い付けて育成に挑戦しました。ところが、うなぎは毎日のように死んでいき最終的に80キロしか残りませんでした。その後も香港やフランスから仕入れようとしましたが、いずれも失敗でした。ほかのうなぎ屋は養殖を使いはじめましたが、天然へのこだわりは職人としての信念であり、野田岩の看板に対する誇りでしたので、どうしても養殖を使う気にはなれませんでした」

 万策尽きた金本は、1961年から天然うなぎが手に入らない冬場の数カ月間、店を閉めることを決断した。休業中も従業員に給与を払い続けたため、経営は厳しい状態が続いたが、その後13年間も冬季休業を続けた。

1970~ 守るのではなく、革新により伝統を継承する


古民家から移築した部材を活かしつつ
洋風建築を取り入れたモダンな新店舗

 1970年頃、金本は浅草のステーキ店「入きん」で初めてワインを口にし、その味に魅了される。当時、日本でワインを提供する店は一部のフランス料理店に限られたが、「入きん」には良質なワインが千本もストックされていた。ワインと出会いフランス料理に目覚めた金本は、それ以降、時間があればフランスへ出かけ、名だたる三ツ星レストランへ足を運ぶようになった。その経験から学んだのは、料理やワインだけではなく店構えから調度品、接客まですべてが一流でなければ三ツ星レストランにはなれないということだった。

 フランスでの学びは、1975年の本店建て替えの際にいかんなく発揮される。外観は蔵をイメージし、内装には飛騨高山の古民家で使われていた柱、梁、欄間を移築し、天然の漆で木材を仕上げた。階段周りには鹿鳴館にならったデザインを施し、照明器具にはイタリアやフランス製を採用、和と洋を絶妙に組み合わせてモダンな空間をつくりあげた。お重はすべて輪島塗、器の絵柄は自ら選んで発注するなど細部にこだわった。「暖簾をくぐられたすべてのお客さまに満足して店を後にしてもらいたい。そのために、味はもちろん店構えから器、接客の質まで徹底してこだわりました」

 新店舗をオープンする前後から、金本による老舗革新が一気に加速する。日本橋高島屋への出店、ワインの提供、志ら焼(白焼き)のキャビア添えなどのメニュー開発、さらに真空パックの販売にも乗り出した。1 9 9 6年にはパリ、2011年には銀座に新店をオープンする。

 「高島屋さんに出店する際は親も兄弟も全員反対しました、ワインを出したときも『なぜうなぎ屋でワインなのか』と否定的な意見も多数ちょうだいしました。それでも改革の手を緩めなかったのは、伝統とは改革を積み重ねた上に築かれるものであり、古いものを守るだけでは継承できないと考えたからです」

FUTURE未来へ 人材育成と自由な発想で野田岩の伝統を次代へ

 野田岩の伝統を継承するために欠かせないのが、次代を担う人材の育成だ。人材育成について金本は「昔は親方や先輩から技を盗めとか、仕事は見て覚えるものだとか言いましたが、今はそれじゃ人が育ちません。だからといって詰め込み教育をしてもうまくいかない。人それぞれ個性がありますから、それを勘案して我慢強く何度でも教えるしかありません。私が思うのは、結局自分を守るのは自分しかいないということです。誰かが自分を守ってくれるわけではない、それに気付いたとき人は伸びるのだと思います。私はこの歳になっても朝5時には厨房に入ります。それが自分を守り、店を守ることにつながると知っているからです」と話す。

 最後に、野田岩の未来について伺うと「野田岩は伝統あるうなぎ屋です。昔も、今も、これからもうなぎ屋としての基本を崩してはいけません。その基本を守った上で、自由な発想を持ち、新たな挑戦をしていくことが、これからの野田岩をつくるのです」と話してくれた。

 齢八十八を迎えた今も引退は考えていないという金本は、野田岩の歴史を紡ぎ続けるため、生涯現役のうなぎ職人として今日も厨房に立つ。

年表

  • 野田岩の
    出来事

    社会の
    出来事

  • 1789

    初代店主岩次郎が野田岩を開店

    寛政年間

  • 1867

    大政奉還

  • 1872

    明治維新

  • 1876

    「東都食通番附」の三番目に野田岩が選ばれる

  • 1926

    裕仁親王が践祚

  • 1928

    五代目兼次郎氏誕生

  • 1941

    太平洋戦争勃発

  • 1945

    自宅兼店舗を焼失

    ・東京大空襲
    ・終戦

  • 1946

    バラック小屋で営業再開

    日本国憲法公布

  • 1950

    新店舗を建設

  • 1958

    兼次郎氏が五代目を継承

(コンセンサス 2016年5月-6月号 掲載)