Episode II 土俵際に立つな

秘伝のサイバー捜査術

4.おとり捜査の誹り

万一の事態に備えがないとは・・・?
事件を時系列に並べ、再度、捜査資料を洗い直すことにした。
第一に、犯人がIDを売るメッセージを掲出
第二に、私が客を装って犯人にIDを買うメールを送信
第三に、犯人がオークションサイトをハッキングし、他人のIDを譲り渡した
という流れになる。
犯人は、当然、自分の犯した罪を弁解するものだ。「IDを売る」との書き込みも、「これは冗談だった。本当はやる気はなかった。」と弁解してくる可能性は高い。     
「自分はやる気はなかったけれど、客が付いてしまった。仕方なく不正アクセスしてIDを入手し売ったら、その客は警察官だった。警察官からメールさえ来なかったら、私はIDなんか盗まなかったし、譲り渡しもしなかった。これは、おとり捜査だ」
もしも、犯人がそう弁解すればどうなるか?事件が根底から崩れる恐れがある。

おとり捜査には、犯意誘発型と機会供与型の二種類があると言われている。犯意誘発型は、相手方に元々犯意がないのに、これを故意に誘発させて検挙するというもの、機会供与型は、犯人がこれまでに何度も同じ犯行を繰り返している状況下において、単にその機会を与えて検挙するというものである。
我が国では、犯意誘発型のおとり捜査は違法とされており、機会供与型については適法との判例はあるものの一部に異論もあり、今回の捜査手法としての妥当性が厳しく問われることは必至だ。本件がきわどい状態にあることは間違いなかった。

「土俵際に立つなとは、このことだったのか・・」

今のままでは、犯人の抗弁を覆す手立てはない。相手にちょっと抵抗されただけで、事件自体が危うくなる。捜査には、たとえ公判廷で証拠が否定されたり、関係者の証言が覆ったとしても、犯人が無罪というラインまで逃げおおせないだけの歩留まりが必要なのだ。

5.発想の転換

それでは、犯人が日頃からIDを密売していたことを証明できればいいのではないか?犯人があらかじめ他人のIDを入手するために敢行した不正アクセスを掘り越して立件すれば、おとり捜査の誹りは受けないはずだ。犯人は、他人のIDを手に入れるために、普段から簡単なIDとパスワードの組み合わせを狙って不正アクセスを繰り返している可能性が高い。仮に、何らかのツールを使っている場合でも、犯人のパソコンは大量のエラーを出しているはずだ。これまでに犯人のパソコンからアクセスしたIDを調べるためには、Cookieを利用する手もある。

また、そんなシステムがなくても、犯人のIPアドレスからプロバイダを割り出し、認証ログを解析して、時間ごとに割り振られたIPアドレスから、どのようなIDが入力されているかを調べればいいのではないか?

解説図

狙いは的中し、数十人の被害者が特定できた。これなら土俵の真ん中で勝負できる!犯人は多数の不正アクセスの容疑で逮捕された。捜査現場からは、盗んだIDとパスワードのメモのほか、大量の預金口座、架空名義のプリペイド携帯電話、偽の運転免許証、そして、覚醒剤までが発見された。

6.室長の便り

不正アクセスの被害付けが全国に及び、捜査は長期間を要した。捜査がひと段落ついた頃、春が終わり、もう初夏が訪れようとしていた。ID屋の摘発を指示した室長はすでに退職し、九州の実家に戻っておられるとのことだった。
「室長がいるうちに検挙できれば良かったんだけどな・・」
上司のために仕事をしている訳ではないが、やはり復命した以上、褒めて欲しいのが人情というものだ。
ある日、捜査帳場に焼酎の一升瓶とともに一通の手紙が届いた。
「鋼(はがね)のように、叩かれて強くなれ!」
送り主は室長からだった。

出典:「警察公論(立花書房)」より

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