宇宙開発史の新たな1ページとなった
──開発を振り返って、とくに印象的だったシーンは?
- 鳥海:
内之浦宇宙空間観測所 大会議室
内之浦での射場作業が印象深いですね。私は内之浦での仕事はほぼ始めてでしたから。イプシロンロケットが初号機ということもあって、ロケットができる前に衛星を運び込むなど期間も長かった。内之浦では歴史の重みを感じました。全員が集まる大会議室には、壁一面に宇宙科学研究所が打ち上げてきた衛星の寄せ書きパネルがびっしりと掲げられ、大先生たちの名前が連なっている。「日本の宇宙開発の歴史そのものなんだ」と感動しましたね。
──そこに新たな1ページを加え、ご自身もそこに加わることができたわけですよね。
- 鳥海:そういうことになるんでしょうか(笑)。休みの日には「ひさき」チームでレクリエーションをしたり、衛星命名の由来となった半島東端の岬「火崎」を訪ねたりもしました。内之浦では地元と宇宙関係者が本当にいい関係を築いていますが、私たちもその輪に加えてもらったという感じがしましたね。
──プロマネのお仕事を振り返ると?
- 鳥海:プロマネの仕事を以前家族に説明するときに「あのアイドルグループのプロデューサーみたいなものだよ」と言ったら、「自分で歌ったり踊ったりするわけじゃないのなら、“自分の衛星”って言えないんじゃないの?」と突っ込まれました(笑)。
──身内は厳しいですね(笑)。
- 鳥海:確かに自分が設計するのでも自分が組み立てるわけでもない。その分、皆より多く心配し、先んじて手を打ち、気持ちよく仕事ができるような環境をつくる。そして最後に信用し任せる。プロマネが本当にホッとするのは一番最後なのだと思います。
──チームの規模はどの程度ですか?
- 鳥海:進捗度合いによって変わりますが、瞬間的には100名ぐらいに膨れ上がることもあります。常に密に連絡を取り合って指示を出す、サブシステムごとの責任者がざっと10名。内之浦の射場作業には30名ぐらいで入りましたので、そうですね、プロ野球のベンチ入り選手と同じ程度の規模じゃないでしょうか。
──JAXAの澤井プロマネとも、通じ合うものがありましたか?
- 鳥海:そもそもプロマネに入ってくる情報というのはだいたいが良くない情報で、難問を抱えることも多かったのです。でもその時にはJAXAの澤井秀次郎プロマネとすぐ協議して、次々と決断していきました。衛星づくりはすべてのプロセスが記録されていますので、もし何かが起こったら、どこに問題があり誰が責任を負うべきかがはっきり分かります。
──すべての決断が「署名付き」なんですね。
- 鳥海:そうでしたね。プロマネは腹を括る気持ちで決断をしなければならない。そんな場面も多かったですね。でも今、軌道上で衛星はしっかりと働いている。
それは下した判断がすべて正しかったことを証明しているのだと思います。個人的にはさらにこの衛星のデータを使ってノーベル賞級の成果が出てくれるのではないかと期待しています。そんな「ひさき」のチームに加われたことはとても嬉しいことですね。
2014年2月28日
鳥海 強(とりうみ つよし)
NEC 宇宙システム事業部 シニアチーフエンジニア
NECの「ひさき」プロジェクトマネージャー。
1994年に打ち上げられた日本初の大型衛星「きく6号」から、
20年以上にわたり衛星開発に携わる。
竹田 康博(たけだ やすひろ)
NEC東芝スペースシステム マネージャー
スペースキューブ 2 の開発を主導し、スペースワイヤの衛星への導入を推進。