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第3回 若い力がプロジェクトを支える

「はやぶさ」を継ぐもの第1回 若い力がプロジェクトを支える

若いプロジェクトメンバーが増えた「はやぶさ2」では、彼らがリーダーの意識に同調してリーダーを逆に支えるという“フォロワーシップ”が、短期開発や初期運用を完遂する大きな力になったという。 これからの本格的な運用を前に、システム担当としてプロジェクトの立ち上げから開発/試験、打ち上げ運用に携わっているシステムマネージャーの榎原匡俊と入社4年目の益田哲也に、これまでの経過や想いを聞いた。


榎原 匡俊 (写真左)
NEC 宇宙システム事業部 主任

益田 哲也 (写真右)
NEC 宇宙システム事業部

写真:NEC 宇宙システム事業部 主任 榎原 匡俊

ものづくりを振り返って

Q:まず榎原さんから経歴をお聞かせください。


榎原:
2006年に入社し、その年に金星探査機「あかつき」のシステム担当となりました。学生時代はJAXA宇宙科学研究所(以下、JAXA宇宙研)でX線天文衛星「すざく」の観測装置の開発に携わっていて、この衛星の製造・運用をしていたNECの技術者の姿を身近に見ていましたから、入社後も割合自然な形で現場に入れましたね。その後、「はやぶさ2」のプロジェクト開始時からシステムマネージャー(シスマネ)として携わってきました。


Q:益田さんの経歴を教えてください。

益田:
2011年に入社しました。もうすぐ丸4年になります。学生時代には衛星を学んだわけではなく、制御工学、特に計測系を学んでいたので特に配属の希望分野は限定していなかったのですが、「はやぶさ2」の担当者となり驚きました。


Q:宇宙に興味は持っていたのですか?

益田:
小さいころから昔のアメリカや旧ソ連の宇宙開発物語はとても好きでした。でも本気で宇宙の技術者を目指そうと思ったのは、就職活動中に宇宙開発企業の話を聞いてからでした。


Q:では「はやぶさ2」開発時について伺います。初代の「はやぶさ」を基にしたとは聞いていますが、何か特徴がありますか。

榎原:

もとがあるといっても、「はやぶさ」は1990年代の終わりくらいに造られていますので、それから10年、生産中止になって使えない部品も結構ありました。
またKaバンド通信機や、衝突装置(インパクター)などの追加、信頼性向上のための冗長構成化など変更もありましたので、本体の大きさは縦方向に15cmほど大きくなりました。

写真:太陽電池パドルの試験の様子
太陽電池パドルの試験の様子


Q:開発時はさまざまな苦労があったかと思いますが、限られた時間の中で乗り越えられた秘訣はなんでしょうか。

榎原:
「はやぶさ2」は、若いメンバーが主軸になっていたからですかね。開発の過程で変更が出たら、すぐに若いメンバーに情報を回して即その対応や影響評価を行うことができたフットワークの軽さは、大きかったと思います。


Q:榎原さんは「あかつき」の開発の時には若手だったのが、今回はシスマネとして若い人達を引っ張る立場になったわけですね。

榎原:
そうです。自分が成長するのに役立ったことを後輩にもさせてあげることができれば、きっと若い人も育つと考えました。「あかつき」で自分が育てられたように。また、シスマネたる自分が“ふにゃふにゃ”するとみんな迷子になりますから、新たなことをやるときはまずは自分から“こういった方針でやるぞ!”という強い決意を彼らに伝えました。フォロワーシップがしっかりしている若手が多くて、逆にそれに助けられてここまで来たかなと思うこともありますが。


Q:益田さんは、学生時代に考えていた“仕事”というものとのギャップはなかったですか?

益田:
大きなギャップを感じることは少なかったですね。学生時代から仕事というものは、人と話をしながら進めるものと思っていました。システムに配属になって、まったくその通りだと確信しました。決して型にはまった手順書通りにすれば良いものではなく、コミュニケーションがとても大事なのです。


Q:実際に探査機開発に携わって、いかがでしたか?

益田:
入社してすぐに「はやぶさ2」の担当となり、システム運用設計やそれに伴う社内外との調整など、4年間でさまざまな経験を積ませてもらうことができたのは、とても良かったと感じています。驚いたのは、製造や検査の人たちの対応の速さと緻密さ、そして“技”です。本当にすごいなと思いました。システム側から難しい依頼をしても、スケジュールも手順も、しっかりと対応してもらえましたから。現代の名工をはじめ、エキスパートぞろいですから当然かもしれませんが。

探査機誕生までの100分

Q:お二人はどこで打ち上げを迎えたのですか?


榎原:
打ち上げ時は、私も益田も相模原のJAXA宇宙研内の衛星運用室にいました。打ち上げに関わる手順書も益田がまとめており、手順書は打ち上げ日毎に変わるため、その準備をしていました。


Q:打ち上げから探査機誕生までの現場の様子を教えてください。

益田:
打ち上がってから、ロケットと分離される探査機誕生までの約100分は、自分の作ったコンテンジェンシー(異常時対応)のケースにならないことだけを祈っていました。「これだけ考えて綿密に準備していたんだからちゃんと動いてくれるだろう!」そんなことを思っていました。
榎原:
私は「絶対に大丈夫だよ」と周りに言っていました。
益田:
榎原さんの「大丈夫だ」に支えられた気がします。

Q:最初に「はやぶさ2」からの電波を受けた時の気持ちはいかがでしたか。


益田:
何も表示されていない画面がぱっと緑(正常)の数値で埋められているのを見て周りから歓声があがりました。それでも私はすべての数値が正常かどうか目を皿のようにして確認し、オールグリーンでOKだったので、心の中で「やったー!」と。
榎原:
改めてプロジェクトメンバー全員に感謝の気持ちがわきましたね。私は探査機が順調であればあるほど、検査をしてくれたメンバーの顔が浮かびます。本当に細かいところまで試験中に確認してくれていたからこそ、宇宙でもちゃんと動くのですから。
初期運用中の管制室の様子 後列右から二人目 シスマネ榎原
初期運用中の管制室の様子
後列右から二人目が榎原


Q:「はやぶさ2」の初期運用は順調に進んでいるようですね。ここまできた気持ちはどんなものですか?特に初期運用の手順をコツコツと作り上げた益田さんは。

益田:
宇宙でないと試験できない項目もあるので、やってみたらまた予想もしないことが起こるんじゃないか・・・と、私は心配していた部分もあったのですが。作った苦労が報われたように順調に推移しています。
打ち上げ後に搭載カメラで実際にサンプラホーンが伸展するのを見た時は「すごいな」の一言でしたね。背景が真っ暗なので、今まで試験で背景のある画像ばかり見ていた私にとって「本当に宇宙にいるんだなあ!」という感を強く持った瞬間です。
イオンエンジンの立ち上げは「はやぶさ」の時にはなかなか大変だったと聞きましたが、そのことを十分lessons learned(レッスンズラーンド)※として運用手順に盛り込んだ結果、スケジュール通り初期チェックを行うことができました。

※lessons learned(レッスンズラーンド):経験によって得た教訓
榎原:
Kaバンド通信系の初期チェックも順調でした。2つのアンテナのうちXバンドは金星探査機「あかつき」からのものですが、Kaバンドは深宇宙としては初めて使う周波数帯でしたので。海外の地上アンテナを使い、JAXAの方々の指導を得て予定通りやりきることがでました。

前へ、2020年を目指して

Q:これからのお二人の抱負は。


榎原:
これからイオンエンジンを本格運用して、地球スイングバイに向けての軌道制御を行います。また2018年夏以降に行われる、小惑星へのタッチダウン運用の詳細検討なども実施します。
今回若いメンバーが「はやぶさ2」チームに多く加わったことは、今後の運用をやりきるうえでも大きな力になると考えています。さまざまな経験をすることで、さらに育っていくでしょう。
益田:
私は、とにかく「はやぶさ2」を無事地球に帰還させる。その間ずっと自分が面倒見るぞという気持ちでいっぱいです。「はやぶさ」の時以上に成果を期待されているわけですから、それに応えるのが自分の仕事だと考えています。帰還する2020年に私はここにいる榎原さんの今の年齢と同じになります。その時までに、豊富な経験値を持つ榎原さんと同じ力を身につけていたいと思っています。
榎原:
自分が経験したことを、できるだけ益田に伝えて引き継いでいくつもりです。


エピローグ

システムメンバーとなって9年、榎原には「はやぶさ2」のシステムを引っ張った自信と、多くの仲間に支えられた感謝の気持ちが溢れていた。その姿を若い益田は良き先輩としてずっと見続けたにちがいない。次は自分がその立場になってチームを引っ張るぞという覚悟とともに。彼らの手によって「はやぶさ2」の航海が無事完遂されることを願って今回のインタビューを締めたい。

2015年2月10日 取材
(取材・執筆 小笠原 雅弘

榎原 匡俊(えばら まさとし)

写真:榎原 匡俊(えばら まさとし)

NEC 宇宙システム事業部 主任

2006年入社。金星探査機「あかつき」および「はやぶさ2」のNECシステムマネージャーを務める。

益田 哲也(ますだ てつや)

写真:益田 哲也(ますだ てつや)

NEC 宇宙システム事業部

2011年入社。「はやぶさ2」システム担当。