「はやぶさ」が残してくれたもの
取材・執筆文 松浦 晋也
- Q:全員ともハンドリング専門の方なのですか。
- 西根:そうです、みんなプロ中のプロです。ですから、「はやぶさ」もあまり苦労はなかったですよ。
- 東海林:ああ、やっぱり信頼していただけの事はある。良かった!(笑)
- 奥平:「はやぶさ」は内部が相当に複雑ですから、優秀な方がいないと絶対組み立てることができません。
- 東海林:軽量化を徹底していくと、配線などはぎりぎりの長さになってしまうし、コネクターも省略することになります。すると探査機そのものが、箱根の寄せ木細工みたいになってしまうんです。「あっちをはずして、こっちをくぐらせて、ここを浮かせて、こうすると分解できる」というような。
- 大島:もちろん全体を見る立場からすると、なるべく組み立てしやすい設計ということも考えていきます。メンバーとも相談しながら機器の配置や構成を考えていくわけです。
- 西根:苦労はなかったと言いましたが、では「はやぶさ」が簡単かといえば、そんなことはなく難しかったです。特に機器を結ぶ配線のハーネス(機体内部配線)も、組み立て分解を便利にするためのコネクターが極端に省略されていたので、試験の時などの組み立てと分解には神経を使いました。それと「はやぶさ」はとにかく突起物の多い探査機でしたね。サンプラーホーンやアンテナ、観測用の各種センサーなどなど。だから引っかけないように注意しました。
- 東海林:それだけじゃなくて、「はやぶさ」は部品点数も多かったんですよ。通常の衛星の1.5倍はあったと思います。だから内部もいっぱいいっぱいで、どうしてもハンドリングが難しくなってしまったんです。
- 奥平:確かに部品は多かったなあ。ターゲットマーカーはロケットと結合するためのアダプターの内側に配置したでしょう。あんなところにまで機器を配置したのって、「はやぶさ」しか覚えがないですよ。
「はやぶさ」下面 ロケット結合アダプター(円形のリング)内にターゲットマーカその他の機器が見える
- 東海林:普通はそんなところに機器を配置しませんからね。
- 西根:機器配置の奥のほうにあって、特定の人でないと手を入れて差し込むことができないコネクターもありました。きちんと組み付けられているかを調べる検査の担当も色々と苦労していましたよ。鏡を差し入れて検査していたりしました。
- 東海林:西根さんたちは、組み立て中の探査機周辺での立ち居振る舞いが明らかに違うんです。危なげがない。「この人たちが頭をぶつけることは絶対にないな」というのが見ていて分かるんです。だから僕らは、「大丈夫、あのメンバーなら組み立ててくれる」と思って設計していました。組み立ててくれる人たちの顔を思い浮かべながら。
- 西根:でもね、そういうベテランも減っているんですよ。最近になって若い人を入れて訓練を始めていますけれど、この仕事は、場数を踏むことで人が育っていくんです。立ち居振る舞いは現場で覚えるんですよ。なんとかして若い人が衛星を作る機会をもっと増やしたいところです。
- 東海林:とにかく「はやぶさ」を作るというのは大変な作業でした。何があっても決して打ち上げを変更できない。「はやぶさ」の場合は打ち上げ時期は地球と目標天体の軌道の関係で、きっちり決まっているので遅らせることができないのです。
- Q:でも、「はやぶさ」の場合は目標天体を変更することで打ち上げ時期をずらしましたけれど。
- 東海林:そうですね。なんとか別の天体に行けることになっても、少なくとも目標天体は変わってしまいますし、そもそもそのような解決策がいつもあるとは期待できないわけです。
- 西根:試験が進むにつれてハンドリングの現場も、だんだん余裕がなくなっていきました。ノートラブルで進むなら、それでもいいのですけれど。大抵は何かが起きて遅れます。余裕があるうちはスケジュールに予備日を組み入れて吸収していましたけれども、それができなくなってその日に予定していた作業が終わらないと帰れないというようになっていきました。
- 奥平:つらい時期は、システムの萩野さんと大島さんがムードメーカーとして、要所要所で熱い思いを語ってくれたのが良かったね。「これならできるかも」という気分になったから。メーカーとしては「遅れました」と言うことができないから、やるしかなかったんですよ。
- 大島:私は大変働きやすかったです。割とスムーズに物事が進んでいく印象を持っていました。でも、それは私の知らないところでプロマネの萩野さんが色々と物事がうまくいくように動いていてくれたからなんですね。「はやぶさ」の開発では、「私は私、あなたはあなた」ということがなくて、みんなお互いの領分に一歩踏み込み合って仕事をしていました。それが結果として良かったんじゃないかと思います。
- Q:皆さん、帰還の6月13日はどうしていましたか。
- 東海林:自宅からネットで観ていました。うれしいというよりも驚きのほうが大きかったです。だって世界初、小惑星への往復飛行は人類初ですよ。運用サイドの苦労は想像を絶するものだったんだろうなと思いながら・・・。
- 奥平:普通なら運用終わりで「最後まで見取ったな」という感覚になるものですが、私も関係した再回収カプセルがあるので、まだまだ続いているような気がします。
- 西根:やきもきしながら中継を観ていました。というのも再回収カプセルと本体を結ぶ配線を最後に切断する機構を組み立てたのは自分だったからです。打ち上げから7年間放置された可動部分がきちんと動作するか心配だったのですが、うまく動いてくれました。
- 大島:私は相模原の管制室で、最終運用に立ち会いました。最後、内之浦の34mアンテナと「はやぶさ」との通信が途切れて、運用ディスプレイには「消感」という表示が出ました。次の日に運用室に行ったら、その表示がそのまま残っていました。管制設備の電源を切らなければ、最後の画面がそのまま表示されたままになるんです…誰が担当だったんだろう。きっと心が残って、どうしても電源オフにできなかったんですね。
- 東海林:終わってみると、面白い仕事だったと思いますが、やっている最中は大変でした。JAXAの方がたに本当に鍛えられました。「はやぶさ」は自分を鍛えてくれた仕事でした。
- 奥平:「はやぶさ」で、ぎっしり詰まった探査機の経験ができたので、その経験は全部金星探査機「あかつき」に生かすことができました。これは良かったですね。
- 西根:ハンドリングのメンバーを育て鍛えるためにも、早く次があればいいなと思っています。
- 大島:もし「はやぶさ2」があるならば、また参加して成功させたいです。「はやぶさ」で出来たこと出来なかったことがありますから、「もし機会があれば今度はもっとうまくやってやる」と思っています。
他に類のない使命を帯びた、探査機「はやぶさ」。部品のひとつひとつから、そのためだけに設計し、製造し、組み立てたものである。
「はやぶさ」は機械であると同時に、世界にただひとつの宝石だった。日本の宇宙開発の知恵と技術と技能を詰め込んだたった一つの結晶。
2010年6月13日、NECの技術者たちが作り上げた探査機は、大気圏に突入し、華々しい輝きと共に燃え尽きた。彼らの努力の精華は微粒子になり、大気に溶け込んでいった。
しかし、後に経験と自信が残った。「はやぶさを造った」という経験。そして、あの「はやぶさ」を造り上げたんだという自信が。
「はやぶさ」のDNAを受け継いだ、「あかつき」と「IKAROS」。
「はやぶさ」が大気圏に突入したころ、「あかつき」は金星へ向かう軌道上で新型エンジンの噴射に成功。「IKAROS」は大きな帆を拡げて世界初のソーラーセイル実験をスタートした。太陽系大航海時代が幕を開けた。
NEC宇宙システム事業部
エキスパート 大島 武
1990年入社。搭載用コンピュータの開発を経てMUSES-C(はやぶさ)のシステムマネージャとして全体設計の技術まとりとめを担当。
2003年7月よりPLANET-C(あかつき) のシステム設計、システムマネージャとして全体設計を担当。
2007年7月よりあかつき プロジェクトマネージャ。
NEC東芝スペースシステム
技術本部 熱機械グループ所属
エキスパートエンジニア 奥平 俊暁
1985年入社。衛星構造設計、機械システム設計等に従事。
現在は科学衛星機械系のとりまとめ。
「はやぶさ」では、衛星機械系全般とサンプラーの設計を担当。
NECエンジニアリング
モバイルブロードバンド事業部第三宇宙開発部所属
エキスパートエンジニア 東海林 和典
1989年入社。衛星構造設計、機械系システム設計に従事。
現在は科学衛星機械系システム、構造設計。
「はやぶさ」では衛星機械系システムと機体設計を担当。
NEC東芝スペースシステム
生産本部 システムインテグレーション検査部
班長 西根 成悦
1973年入社。横浜工場機工にて衛星搭載部品製造に約20年従事。1995年より主に科学衛星を担当し、さきがけ・すいせい・あけぼの・ようこう・はるか・はやぶさ・あかつきの製造リーダーを務める。2011年11月「卓越した技能者(現代の名工)」表彰を受賞。
取材・執筆文 松浦晋也 2010年7月7日