講演録
大坂方の薩摩落ち伝説に見る薩摩人気質(かたぎ)について
島津 修久氏 株式会社島津興業 代表取締役会長/宗教法人 照國神社 宮司

写真:嶌 信彦氏

「薩摩落ち伝説」とは、大坂夏の陣の後、大坂方の武将が実は大坂では亡くならずに薩摩で生き延びたという伝説です。ではなぜ薩摩なのでしょうか。島津家第32代当主の島津修久氏に、鹿児島に伝わる大坂方の薩摩落ち伝説と、その背景にある薩摩人の気質についてお話しいただきました。

薩摩落ち伝説とは

大坂方の武将の薩摩落ち伝説は、長く鹿児島で伝えられてきました。私は、伝説が事実であるかよりも、長く伝えられてきたことの意味をもっと顕彰していくべきではないかと思っています。薩摩落ち伝説が紹介されているいくつかの書物を紹介します。

江戸時代後期に得能通昭が編纂した『西藩野史』の中に“関ヶ原で敵中突破してきた島津義弘公のところに、大坂落城の元和元年(1615年)、秀頼の家臣が密かに来て「秀頼公は偽って大坂城で亡くなられたことになっているが、実は薩摩の大隅でかくまわれていると聞いている。ぜひ会わせていただきたい」と言って来た時、義弘公はこれを捕え京都の板倉伊賀守のもとに送った”とあります。

2つめは『平戸商館長日記』です。東インド会社の商館長リチャード・コックスは、大坂落城から間もない6月5日“大坂城落城後、秀頼の遺体が発見されなかったため、密かに脱出したと信じている人が多い”と。さらに数カ月後に“秀頼は重臣たちとともに薩摩で生きているという噂が広まっている”と書いています。

3つめは、上田秋成が『胆大小心録』の中で“島津の軍勢が兵糧米五百石を大坂城内に運び込み、帰りに秀頼、真田幸村、木村重成らを救い出した”と。また作者不明の『備前老人物語』には“秀頼公は島津家の家臣の伊集院半兵衛の案内により、小舟で一気に河口まで下り、迎えにきた本船に乗り移って薩摩に向かった”と書かれています。

4つめの『薩藩旧伝集』には、19代島津光久が有馬温泉に湯治に行ったとき“見知らぬ老人が家臣に「自分は故ある者で秀頼公は薩摩に下っておられたと聞いているが、いつ頃亡くなられたのか」と。家臣は「秀頼公は大坂城で自害されたと聞いており、薩摩にはおいでになっておりません」と答え、結局聞いた人物が誰だか分からなかった”とあります。

このように大坂落城以降、全国に秀頼や大坂方の武将が薩摩に落ち延びてかくまわれているという噂が広く流れました。では、なぜ他の地方ではなく、薩摩なのでしょうか。

関ヶ原合戦における西軍の将、宇喜多秀家庇護の実績

その理由の一つに宇喜多秀家の庇護の実績があります。義弘公が関ヶ原の合戦から生還した翌慶長6年(1601年)、薩摩に逃れてきた備前岡山の当主宇喜多秀家を義弘公は2年かくまいました。後を継いだ18代の家久公に助命嘆願をさせ、秀家公の一命を救ったのです。

『島津義弘公記』に当時の世論は“公の義を多しとす”とあり、義弘公の行動は義にかなったもの、人の道や正義、義理にかない、世論が高く評価していると紹介しています。

秀家は五十七万石の大名で若くして秀吉の五大老の一人に選ばれた人物で、関ヶ原の合戦では1万8千の兵を率いて戦い、敗軍の将となって戦場を離脱し敗走しました。そして、翌年6月、薩摩の山川港に現れ、島津家に救いを求めたのです。

朝鮮や関ヶ原で共に戦った盟友を義弘公は見捨てられず、牛根にかくまうことにしました。牛根の二川には浮津という地名があり、宇喜多に因んだものと言われています。秀家が薩摩にいる事実が広まると、千人近くも縁者が集まり、いよいよ放っておけなくなりました。

島津家が関ヶ原の合戦から徳川に恭順するまで2年あります。毛利輝元のように挨拶に行くと減封されかねないと2年間粘りました。2年後ようやく家久が上洛し、家康から旧領を安堵され、恭順の意を表して和睦を結びました。

翌年家久は徳川方で懇意にしていた山口直友に秀家を許すように懇願。秀家夫人の実家で加賀百万石の前田利長と、七十七万石の島津家久が懸命に助命嘆願を続けたため、家康は渋々「島津の顔を立てるだけ」と承知したそうです。島津家は秀家一行を伏見まで送り届け、秀家は3年ほど久能山に幽閉された後、八丈島に流刑され、明暦元年(1655年)83歳の長寿を全うしました。

この事実があったからからこそ、大坂方の薩摩落ち伝説が期待されていたのではないかと思います。

豊臣秀頼、真田幸村、木村重成について、そして明石小三郎の場合

秀頼については『西藩野史』によると“薩州谷山に来て住みついた者があった。背丈が高く色白で高貴な顔立ちをされていた。村人たちは秀頼ではないかと噂をしていた。その子孫は今は農民である。その居るところを木下門と言う”と。

また『薩摩風土記』には“殿様から、この御人には一切無礼のないようにというお触れがあり、人々はこの人物が酔っぱらったり、無心して困ったりするときは、できるだけ関わり合わないように避けて通った”と書いてあります。「谷山の酔いくれ」や「谷山の食い逃げ」の戯言は秀頼に由来するとされています。谷山の上福元町には、秀頼の墓と伝えられる立派な多宝塔があり、下福元町の元木下、木下川、木下門などの地名は豊臣家に縁の名前と言われています。

信濃の真田幸村は、上田城で徳川秀忠の4万の大軍を翻弄し、大坂城の戦いでは徳川家康の本陣を急襲。危うく家康が命を落とすか、という活躍をした人物で、この英雄の薩摩潜伏も大いに期待されました。揖宿郡頴娃町(現・南九州市頴娃町)には雪丸という地名があり、幸村をもじったと言われています。この山中に山川石で造られた宝篋印塔の墓があり、『頴娃村郷土史』では幸村の墓としています。また真田の二字の間に江をはさみ「まえだ」と読ませる苗字があり、幸村の末裔と言われています。

また『三国名勝図会』には、揖宿郡の山川郷に木村重成の墓があると紹介されています。重成は美少年として知られ、秀頼の小姓を務めていました。大坂夏の陣の河内若江の戦いで長宗我部盛親と組み、井伊直孝の軍勢と勇戦して亡くなります。出陣に際し兜に名香を焚き込み、兜をとったら誰だか分かるようにしていました。美少年というだけでなく豪胆でもあり、重成の薩摩落ち伝説も、彼を何とか生かしたいという人々の心情によるものと思われます。

落城から18年後の寛永10年(1633年)、大坂方の武将で明石掃部全登というキリシタン大名の息子の小三郎が薩摩のキリシタンにかくまわれていたことが発覚したと『薩藩旧伝集』に記録されています。島津家の重臣の矢野主膳がキリシタンではないかと追及された際に「それなら、殿様の近辺にもキリシタンがいる」と言ったことで発覚したと伝えられています。小三郎をかくまっていた薩摩のキリシタンばかりか、18代家久の奥方の母、19代光久の母方の祖母である永俊尼(洗礼名:カタリナ)の処分にまで発展する大事件になりました。

薩摩藩はどのように対処したか

薩摩落ちの対処方法を見てみます。義弘公は宇喜多秀家を2年ほどかくまいました。義弘公の自伝を私がまとめた『島津義弘の軍功記』の中に“人の危難を見ては、命を惜しまない義の心を大切に考えてきた”と。正義の心、義理人情の心、人の道、そういう気持ちで秀家をかくまったと考えます。

しかし徳川幕府に恭順の意を表してからは、徳川にも義を立てなければなりません。大坂冬の陣のときは、家久宛に大坂方から“豊太閤の御恩のゆえにぜひ豊臣方に加勢をしてくれと再々頼まれ太刀も贈られた”。このとき義弘公は家久に“豊太閤の御恩ゆえに関ヶ原の合戦では石田方についたが、徳川方は島津家を許し社稷を保つことができている。この御恩を忘れては人倫にあらず”と諭しています。

徳川方は、西軍の武将たちがどういう態度をとるか、島津方も徳川方がどういう態度をとるか分からないと用心していたので双方にとって好都合でした。しかし島津家はあくまでも徳川方に恭順しているので、薩摩落ちの噂が広まれば、お家存亡につながりかねないと大変憂慮していました。ですから、キリシタンの明石小三郎の事件の場合は、幕府の方針に従ってすぐに措置をとったのだと思います。

義弘公の本心

大坂城攻めの頃、義弘公は加治木の居城で毎晩のように夜空をご覧になっていました。流れ星は凶とされ、流れ星を見て小姓に「ああ、大坂城は遂に落ちてしまった。もし自分が大坂城におったならば」と、ため息をつき嘆かれることしきりであったと伝えられています。これが義弘公の本心だと推測されます。薩摩落ちに希望を託すゆえんは、義弘公の本心がこういうところにあったと広く知られていたからだと思います。義弘公は、秀頼公たちと大坂城を守りたかったのではないかと思います。

80歳を過ぎた頃書いた自伝『島津義弘の軍功記』には“島津の家が400年、20代も長く続くのは、代々仏神を崇め、先祖を敬い、武略を修め、文教に勤しみ、忠節を尽くしてきたからであり、家久以下はこれを守りなさい”と言い残しています。おそらく薩摩落ち伝説に世間が託したのは、義弘公や薩摩の人たちが身につけていた「義」、人の道、義理や人情、正義など、義を重んずる心であったと思います。

若い頃に義弘公と共に関ヶ原を戦い帰ってきた山田昌巖は、出水の地頭を務め90歳で亡くなっていますが、山田昌巖の『出水兵児修養掟書』は、当時の薩摩の人たちの精神をよく表しています。

“士は節義を嗜み申すべく候。節義の嗜みと申すものは、口に偽りを言わず、身に私を構えず、心直にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂わず、下を侮らず、人の患難を見捨てず、己が約諾を違えず、甲斐がいしく頼母しく、譬恥を知りて首刎ねられるとも、己が為すまじき事をせず、死すべき場を一足も引かず、其心鐵石の如く、又温和慈愛にして、物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと申すもの也”

人々が薩摩落ち伝説に期待したのは、義弘公やこの掟書を心身に刻み付けた薩摩の人たちの心意気にかすかな望みをかけていたからではないかと思います。

 

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