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第1回SP研コラム

写真:藤井孝藏
SP研会員のみなさま、JAXAの藤井です。この春まで2年間の間、SP研の委員長をやらせていただきました。委員長をやらせていただいている間に、SP研からの情報発信を少しでも盛んにするため、NECにお願いしてSP研のホームページを作っていただきました。ホームページというより、会員が勝手に意見交換したり、NECへ不満をぶつけたり、NECから疑問に答えていただくようなSNS的なページができるとよいと思ったのですが、外からのアクセスなどが企業ではなかなか難しく、一方的に発信する場とさせていただきました。スーパーコンピュータに関するいろんな情報、例えば、本年発表されたSX-9の関連情報、次世代スーパーコンピュータの開発の話題などもNECから積極的に出していただきたいと思っています。あわせて、シンポジウムなどでは聞くことのできない会員からのさまざまな話を掲載していただくようにしたいと考えていますので、ご協力よろしくお願いします。

さて、言い出しっぺということで、まず委員長を退任した(首になった?)私が何かを書かなければいけないことになりました。そこで2回から3回程度連載で航空宇宙におけるCFDの昔話をさせていただこうと思いって原稿を用意しはじめましたが、その最中私たちにとって衝撃的な出来事が起きました。桑原邦郎先生の訃報(2008年9月13日夜)です。SP研という意味では、私の前に長らく委員長を務められていました。同じ宇宙研に長らく席を置いたものとして、また同じ分野の研究者として桑原先生にはたくさんの思い出があります。用意しかけの原稿はまたの機会に掲載いただくことにして、みなさんもおそらくご存じない、「桑原さん」の姿の一端を私の思い出とともに書かせていただき、会員のみなさん、SP研事務局をはじめとしたNECのみなさんともども桑原先生のご冥福を祈りたいと思います。スタート時に暗い話で恐縮ですし、思い出は書き始めると止まらないので多少長くなるのはご容赦ください。

SP研究会前委員長 藤井孝藏
「桑原邦郎先生を偲ぶ」
〜 出会い 〜
1972年、私は東京大学理科一類の2年生として駒場で勉学(?)に励んでいました。正直、講義は面白くなく、目的意識のない毎日でした。季節は忘れましたが、ある日、数学演習という100名程度の大部屋講義に出たときのことでした。階段教室だったことだけが記憶にあります。黒板に書かれ問題を解くというつまらない講義ですが、「演習」ですのでさぼれません。私は決してできのよい学生ではありませんでしたが、たまたま問題が解けて暇そうにしていたら、講義を担当していた教師が何も言わずに隣に座りました。その教師は、何故か、いきなり自動車のことを話し始めました。ロータリーエンジンを載せたカペラがどうだとか、私も、(大学時代はともかく)中学生の頃は、山本健一氏(マツダのロータリーエンジン開発者)の本などよく読んでいたのでついつい話は盛り上がりました。講義も終わり近くなり、その教師は教壇に戻りました。変わった人だなあと思い、名前を確認したら「桑原邦郎」という名前でした。これが、私と桑原さん(あえて昔のまま呼ばせてもらいます)との最初の出会いです。私は20歳、桑原さんは28歳だっただろうと思います。かなり後になって本人から聞いたのですが、博士課程を終了し教養学部の助手になってすぐだったようです。36年前の話です。
〜 再会 〜
1980年、私は何とか博士課程を修了し東大宇宙研の学振ポスドクになっていました(このあたりの話は現在書きかけの原稿として別の機会に)。 CFDという言葉は少なくとも日本ではほとんどに知られていない時代です。ちなみに、その数年前、宇宙研の大島耕一先生が東大航空の大学院講義に「数値流体力学」を作られています。ある日、大島先生からある国際会議(ICNMFD)のアブストラクト募集案内が廻ってきました。30年近く前、しかも私の指導教官は海外に出ない方でしたので、国際会議の発表とかいう感覚がわからなかったのですが、場所がスタンフォード大学とNASA Ames研究所という単純な理由でアブストラクトを書きました。幸い、acceptされ、大島先生を団長?にして7名が一緒に渡米することになりました。その中に、どこかで見たようなちょっと(だいぶ?)太めな人がいました。向こうも何故か私のことを覚えていたようで、そういえば数学演習で車の話をしたよねーみたいな会話で盛り上がりました。これが、私と『桑原さん』との再会です。円が300円を超える時代で、節約のため飛行機はハワイ経由でした。はじめての国際会議発表ということで、私にも結構な緊張感がありましたし、大島先生主導で現地に着いてからも発表練習をやらされました。桑原さんは練習のときはたいがい一番前に座っていましたが、よく寝ていました。後年、司会をしながら寝てしまう姿をご存じの方も多いでしょう。それです。また、それ以前もそれ以後も見たことがないのですが、大島先生がワインを飲み過ぎて酔いつぶれ、桑原さんがモーテルの部屋までかついでいったのをよく覚えています。はじめて会ってから8年後の再会です。
〜 それから 〜
『桑原さん』はその後すぐに、NASA Ames研究所にNRC研究員として留学、1年後大島先生の要請で宇宙研の助教授として日本に戻ります。私は、すれ違いでNASA Ames研究所に行きました。米国で重なった時期は1月足らずです。記憶にあるのは、桑原一家が帰国のときに、諸兄と真楯(漢字が違っていたらごめんなさい)兄弟がカウボーイ姿をしていたことです。ちなみに、旅人君は生まれていません。また、車好きの『桑原さん』は3.6(エンジンのサイズをcubic inchで表したもの)と呼ばれる5リッターを越えるクライスラーコルドバに乗っていました。屋根は取り外し可能、窓からなにから全部電動、シートは赤の革張りと、中古車ではありましたが、何とも贅沢な車です。私は2700ドルと格安?でこの車を譲り受けました。運転は大変でしたが、私にとっても思い出の車です。

1983年秋、私は2年間のNASA生活を終え、日本に帰国しました。正確にいつはじまったか記憶にありませんが、この頃から桑原さんの野辺山の別荘で定期的なセミナが始まります。1月か2月に1回、10名程度が金曜の夕方、青山の紀伊国屋で食料を仕入れ、車に分乗して現地に行き、日曜までCFDの議論に明け暮れる2泊3日を過ごします。参加者は時代とともに変化し、かつ次第に膨らんでいきます。いわば桑原ファミリーというか桑原スクールというかそんな時代でした。九州大学の桜井先生、当然、河村哲也さん(現お茶大)、石井克也さん(現名大)や直接の教え子である、大林茂くん(現東北大)、白山進くん(現東大)といった学生連中も一緒です。その後、岩津さん(現東京電気大)、太田さん(現東京工科大)らも加わりました。きりがないので省略しますが、受託研究員で桑原研に来た姫野さん(現理研)をはじめ桑原さんの元で博士の学位をとった企業の方や、学生が数多く参加しています。当時宇宙研の助手だった井上督さん(現東北大)や航技研の中橋和博さん(現東北大)らも居ます。野辺山で私たちはたくさんのことを学びました。桑原さんも議論しながら、いろんなことが自分でも整理できていったのだろうと思います。ちなみに、夕食担当は桑原さんでチキンカレーと決まっていました。紀伊国屋の瓶詰めソーセージ、贅沢品のからすみなども忘れられません。

今1つの思い出は野辺山国際ワークショップです。上記のICNMFD国際会議に加えて1985年、当時宇宙研の大島耕一先生の努力でもう1つのCFD国際会議ISCFDが東京の田町で開催されました。この機会にたくさんの海外CFD研究者が日本にやってきましたが、その機会を利用して桑原さんが立ち上げたのがこのワークショップです。場所は、個人的な趣味で野辺山高原ロッジ、料理も特別に本人が納得できるもの、招待者のみ、最大でも30人ほどを越えない規模、野辺山セミナの海外拡張版のように、2−3日間同じホテルに泊まり、朝から晩までわいわい議論する、そんな雰囲気です。その後、しばらくは隔年で、その後も不定期に何回か開催されています。現時点で最後の開催は、60歳の誕生日を迎えた桑原さんを主賓とし、私と中橋先生が企画した2003年の祝賀ワークショップとなっています。このワークショップには本当にたくさんの優れたCFD研究者が招待されました。研究内容という面でもそうですが、研究者コミュニティとして、私も含め、このワークショップによって世界へのつながりが大きく広がった方も多いと思います。ちなみに、ワークショップ発表資料はほとんどSpringerから出版されています。

日本のCFDを飛躍させたいくつかの出来事があります。その1つは上記のISCFD国際会議であり、もう1つはこの会議をきっかけに申請され1987年から3年間活動した科学研究費重点領域研究「数値流体力学」です。この科研費を母体として12月恒例行事となった国内の数値流体力学シンポジウムが重要です。機械、土木・建築、航空宇宙、物理、など分野横断的に研究者が一同に会することができる貴重な機会となりすでに20回を越えて機能しています。これら広く知られている出来事に比べて、一般には知られていませんが、野辺山ワークショップをはじめ桑原さんが私財?も投じて進めてきた国際的な活動や人材育成は、実質的な意味でこれに劣らない貢献であったと断言できます。人を育てることは組織的な動きよりもこういった個人レベルの活動が有効なのでしょう。桑原さんの貢献は、多くのみなさんが知っているよりもずっと大きかったことを知って欲しいと思いました。

研究的な側面には触れるまでもないかもしれませんが、乱流モデルを使わない手法がある程度通用することを、実例をもって示したことは、その後のCFD研究に大きな影響を与えました。過去の理論的な考え方からするととても論争的な考え方ですし、誤解されやすい手法です。格子解像度に関わらず乱流モデルなんか使わないでよいのだと勘違いした方もいたとは思いますが、桑原さん自身は、その限界も課題も十分わかった上で、提唱していました。乱流理論にとらわれた研究者にとって、理論から離れたやり方でも、それが現実の課題解決に有効であることを実証した点で、CFDの世界に大きな影響があったと思います。また、自らあまり発言しないので、誤解されやすいという桑原さんの側面がよく現れています。
〜 桑原さんへの思い 〜
桑原さんは1983年に宇宙研の助教授になって以来、一昨年退官するまでずっとそのポストに就いていました。宇宙研が淵野辺に移転して家から遠くなったこと、またその後、流体研という会社を実質的に立ち上げたこともあって、所属はあっても宇宙研の業務に直接的に貢献することはままにしかありませんでした。桑原さんは、自ら積極的に動きはしない人でしたが、頼まれると嫌と言えない人です。やり方次第では、いくらでも貢献したと思います。ご本人に全く責任がないとは言いませんが、この類まれな研究者の力を宇宙科学にうまく利用できなかったのは不幸というしかありません。正直、宇宙研のマネジメントにも大きな責任があったと思います。もしそれができていたらたくさんの優れた成果がそこでも出ていたに違いないとずっと思っています。もちろん、桑原さんの研究は、宇宙研とかいうスケールを越えた別次元で大きな貢献となっていますので、それはそれでよかったのかもしれません。

流体研の設立については、いくつかの思いがあります。桑原さんはビジネスをしたくてこの会社を作ったわけではなく、好きなだけスーパーコンピュータを使いたい、多くのCFD研究者に使わせてあげたいという純粋な思いだけで会社を作りました。このことは多くの方がご存じだと思います。しかし、企業を維持するにはビジネスを成立させなければなりません。桑原さんのエネルギーがそちらに使われたとしたら大変残念です。桑原さんは人を育てる天才です。90年頃まで比較的近くに居てそう思うことがたくさんありました。野辺山セミナなどで出会う若い学生の中には、当初、はてなマークがつく学生もいましたが、常にこれ以上ないくらいに褒めます。そのうちに次第に学生が変化し、優秀になっていきます。会社を作ったことで、学生を育てる時間がもし減ってしまったとしたら、それは大きな損失だった気がします。

最後に1つとっておきの思い出を。90年頃だったか二人だけでシンポジウム発表や論文について議論したことがあります。計算法自体に関する論文は別ですが、多くの方がご存じのように桑原さんの論文は、数値計算の結果だけがきれいな図やアニメーションで示されます。何故、現象論がないのか、そこには実は桑原哲学があります。「現象論が論文中にあると読者が先入観を持って結果を眺める。現象論は読者自身が結果を見て考えるもので、執筆者の意見を押しつけてはいけない」という論文に関する考え方です。私は、「論文で示せる結果は限られている。また、執筆者も読者も、結果としては現象を理解し、工学でいえばそれを設計や開発に活かしたいだろう。執筆者が何かを書くことで議論が始まる。それなくしては議論も生まれず、学会発表の意味がないのではないか」という意見をぶつけました。さらに議論は進み、「執筆者の意見の押し売りはいけない。間違いや、限定された視点になってしまう」、「間違いがあってもよいのではないか。長い歴史のうちには、たくさんの間違いもある。議論が生み出され、それがよりよい理解に進むのだからそれでよい」といった具合で、結局最後まで平行線でした。桑原さんは、こういったことをみなに語ることはしませんが、彼の書く「結果だけが示される学会発表資料」はこういった意図が潜んでいることもみなさんにお話しておきたいと思いました。

同じ職場でしたが、私が桑原さんに会うのはもっぱら米国など海外でのシンポジウムでした。私自身は、亡くなって悲しいというより、残念という気持ちと、あの、人なつっこい笑顔がもう見られないことが不思議な気がしています。私たちは、個性豊かで類いまれな能力をもった貴重な人を失いました。しかし、その影響を受けた多数の研究者がすでに育っています。私もたくさんの刺激や恩恵も受けています。同様なのは国内の研究者だけではないでしょう。世界中でその人たちが大きな成果を挙げることが期待されます。残されたご家族の幸せと故人の冥福を祈りたいと思います。

10月1日
前SP研委員長
宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究本部教授 藤井孝藏
〜 結びにかえて 〜

桑原先生のご訃報を本田技術研究所の高林様からメールでお知らせ頂いた時、大変ショックでした。先生には7月のNEC HPC研究会でお会いし、懇親会にもご参加頂きまして、その時は大変元気なご様子で、楽しくお話をしたばっかりだったのです。桑原先生は10年以上もSP研究会の委員長を務められて、NECに多くのアドバイスを頂きました。毎年のNUAマネジメントフォーラムに参加されることをとても楽しみにしておられました。役員会で研究会の活動報告を各委員会の委員長が行うのですが、桑原先生はSP研究会の活動報告では、いつもご自分の研究のお話をされ、参加されている他の委員会の方々は難しいお話にいつも困っておられたようでした。2005年に手術された際、大変お痩せになって心配しておりましたが、半年後にお会いした時には元通りの体型に戻られて安心しておりましたのに、今回突然亡くなられて大変残念に思っております。委員長ご就任中、NECには多くの叱咤激励を頂きまして、私自身も先生から多くのことを教えて頂きました。SP研究会を今後もさらに盛り上げて行くことが先生のご期待に応えることだと思っています。
心より先生のご冥福をお祈りいたします。

NUA-SP研究会事務局 陶理恵
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