文学散歩

第5回

『柳原白蓮』ゆかりの地
福岡県・飯塚市

散歩した人
株式会社 麻生情報システム
小堺 季子さん

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波乱万丈の人生を生きた白蓮

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「おもひきや 月も流転の かげぞかし わがこしかたに 何をなげかむ」と刻まれた歌碑

 「ひるの夢あかつきの夢夜の夢 さめての夢に命細りぬ」
 狂おしいまでの恋慕や憂愁・懊悩を詠んだ美貌の歌人であり、大正の世を揺るがすスキャンダラスな事件を起こした柳原白蓮。今回、白蓮ゆかりの地を歩いてくれたのは、株式会社 麻生情報システムにお勤めの小堺季子さんです。小堺さんは同社の医療システム事業本部 医療営業部に属し、医療機関へのシステム提案や営業活動を担当しています。「以前、林真理子さんの『白蓮れんれん』を読んで白蓮さんのことを知りました。私が筑豊出身だからかもしれませんが、伝右衛門さんを裏切った白蓮さんに共感できないというのが今の正直な気持ちです」。

 柳原伯爵の家系で愛育された白蓮は、14歳で子爵北小路家に嫁ぐも5年後に離婚。その後27歳のとき、一代で巨万の富を築いた立志伝中の炭鉱王、伊藤伝右衛門と再婚し筑豊の地へ嫁ぎました。大正天皇の従妹にあたる白蓮を迎えた伝右衛門は、豪奢な住まいを用意し、歌集の出版を後押しし、金銭的に何不自由ない暮らしを与えました。しかし、白蓮は伝右衛門の愛情を感じることができず孤独に懊悩し、その苦しみを歌に託すことを生きがいとします。大正7年、白蓮が記した戯曲を通じて知り合った7歳年下の宮崎龍介と出会い、700通のラブレターを交わすほど熱烈な恋に落ち、大正10年に事件を起こします。

 「・・・私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げます。・・・」という内容の伝右衛門への絶縁状を新聞紙上に公開して駆け落ち。姦通罪がある時代に白蓮が起こしたこの行為は、当時大きな波紋を巻き起こし白蓮事件と呼ばれました。

 

明治・大正・昭和初期の建築技術の粋を集めた旧伊藤邸

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飯塚市歴史資料館で白蓮に関する資料を見学

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白蓮が過ごした旧伊藤邸内の居室

 筑豊の歴史的資料と共に、白蓮と伝右衛門に関する資料が展示されている飯塚市歴史資料館を訪れた小堺さんは、白蓮の生い立ちに関する説明に興味深く聞き入っていました。

 資料館を出て遠賀川河川敷に立つ歌碑を見学した後、白蓮が暮らした旧伊藤伝右衛門邸へ向かいました。伝右衛門が巨万の富を投じて建築した旧伊藤邸は、日本建築の粋を集めた品格高い建築物であり、今は文化遺産として公開されています。

 大名屋敷をしのばせる長屋門を抜け、玄関をくぐると左手にはイタリア製大理石の暖炉を備えたアールヌーヴォー調の応接間があります。その重厚かつ芸術的な佇まいは、息を止めて見入ってしまうほどの美しさです。その先には屋敷を貫く50mほどの長さの廊下があります。廊下の天井部分には結界が設けられており、これを境に皇族である白蓮の住む空間を分けていたそうです。結界を越えた先にある階段を昇った2階が白蓮の過ごした居室です。チューリップ型にデザインされた取っ手をあしらった銀箔の襖、竹の節だけ残した透かし細工の欄間、床の間には伊藤家の紋章をモチーフにした巧妙な寄せ木の天井、そこかしこに意匠を凝らした気品ある和室です。この部屋で庭園を見下ろしながら、歌を詠む白蓮の姿が目に浮かぶようです(「今回の散歩道」写真参照)。

 居室に立った小堺さんは「この部屋でひとり歌を詠む白蓮さんの胸にはさみしさがあふれていたのかもしれませんね」と、白蓮の孤独に思いを馳せていました。「寂しさのありのすさびに唯ひとり狂乱を舞ふ冷たき部屋に」という白蓮の歌は、この部屋で詠まれたのかもしれません。

 

華やかなりし筑豊を舞台にした白蓮と伝右衛門の物語に思いを馳せて

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旧伊藤邸敷地内に立つミュージアム白蓮館

 旧伊藤邸を見学した後、敷地内に立つ白蓮ミュージアムを訪れました。ここには白蓮が愛用した着物などの遺品や色紙が展示されています。

 小堺さんに白蓮ゆかりの地を歩いた感想を伺いました。「白蓮さんは恋に命をかけた女性といわれますが、その形容詞は少し違うと感じました。現実を受け入れられず逃げ出した白蓮さんは、心が幼かったのではないでしょうか。むしろ、私は白蓮さんに自由を与え、精一杯庇護したにもかかわらず裏切られた伝右衛門さんが何を思っていたのか知りたいと感じました。また、旧伊藤邸を隅々まで拝見させていただき、あらためて華やかなりし頃の筑豊に興味がわいてきました。これを機会に、郷里の歴史に目を向け、もっと素敵なところを探しにいきたいと思います」。

 

(2011年3月1日掲載)

作品紹介

『踏絵』 白蓮著

 大正4年に、浪漫的であでやかな作風、夢と悩みと憂愁と沈思のこもった300余首を綴った『踏絵』を自費出版。『踏絵』には、夫の愛情を感じられない暮らしから生じた悲痛なまでの孤独や、鮮烈な言葉で恋心を詠んだ火のような歌が数多く詠まれています。白蓮は、その処女歌集により歌詠みとしての名声を手にしました。その後、戯曲『指鬘外道』を通じて宮崎龍介と運命的な出会いを果たします。事件後は結核を発症した龍介に寄り添いながら、筆一本で家計を支えます。最愛の息子の戦死後は「慈母の会」をつくり平和運動に献身。82歳で龍介に看取られるまで幸せに暮らしたといわれています。

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今回の散歩道

飯塚市歴史資料館→柳原白蓮歌碑→旧伊藤伝右衛門邸

<所要時間:約3時間、タクシー・徒歩での移動時間含む>

飯塚市歴史資料館

昭和56年11月、郷土の歴史・文化に対する理解と認識を深め、市民の文化活動、生涯学習に寄与することを目的に開館された。
一部にに古代の高床式を取り入れ、日本伝統の丸瓦風の屋根という、一見古代の新明造の形式となっている。市内で発掘された立岩遺跡からの出土品である甕棺[かめかん](重要文化財)や、10面の前漢鏡[ぜんかんきょう](重要文化財)などが収蔵され、常設展示室には伊藤伝右衛門と柳原白蓮の展示コーナーが設けられている。

白蓮歌碑

「おもひきや 月も流転の かげぞかし わがこしかたに 何をなげかむ」と刻まれた旧伊藤伝右衛門邸側の歌碑。
晩年にわが身をふりかえり月の満ち欠けと自分の一生を思い合わせて「わがこしかたに何をなげかむ」と強く生きる覚悟を表した歌。

旧伊藤伝右衛門邸

新飯塚駅から遠賀川沿いに北上した長崎街道沿いに位置し、日本庭園に面して4つの棟と3つの土蔵からなる。
筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門と歌人柳原白蓮が1955年からおよそ10年間を過ごした邸宅。アールヌーヴォー調のマントルピース、イギリス製のひし形のステンドグラスのある応接間、一畳たたみを敷き詰めた長い廊下など様々な芸術的技法を取り入れ、御殿のような豪華さを放っている。

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敷地面積約2,300坪に及ぶ旧伊藤伝右衛門邸

 
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天井板の工夫により傾斜したように見える矢羽天井

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ヴィクトリア様式の飾り枠が美しい洗面鏡

 
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天袋の襖にも金箔が施され、美しい蝶が舞う

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着物の端切れ等を織り込むことで繊細な柄が浮かび上がる布壁

 
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意匠を凝らした本格的な茶室

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本座敷のシャンデリアを支える構造板に彫られた菊の御紋

 
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伊藤家の紋章をモチーフにした竹の寄せ木天井

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竹を使った透かし細工の欄間

 
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部屋ごとにデザインが異なる取っ手。左から帆掛け舟、松、チューリップがモチーフ

 
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ドイツ製の板ガラスを贅沢に使った食堂

 

■ここでチェック

飯塚市歴史資料館 白蓮歌碑 旧伊藤伝右衛門邸

 

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