あの日の風景

第12回 御茶ノ水・万世橋旧駅 (最終回) 久保田淳(国文学者)

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 宗吉は学費もないのに郷里を飛び出し、神田明神坂下の長屋にころげ込んで、落第医学生集団の使い走りなどをさせられていた。お千はその集団の首領格の男に囲われている女で、「宗吉には三ツ四ツ、もつとかと思ふ年紀上の綺麗な姉さん」だった。

 ひもじさに堪えかねて、宗吉は買いにやらされた塩煎餅を、使いの帰りにこっそり抜いて食べたが、それを集団の連中に見つけられ、嘲笑される。お千への恥ずかしさに、神田明神の裏手で剃刀自殺しようとした彼から剃刀をもぎ取ったのは彼女だった。二人は元の家に戻らず、御徒町の下宿屋に身を隠した。お千は宗吉を夜学に通わせ、生きてゆくために私娼として客を取る。ある日、警察の風俗係が踏み込んでお千を捕らえ、しょっ引いていった。「めそめそなきながら」後を追う宗吉に、お千が言った。

「姉さんが、魂をあげます。」—— 辿りながら折つたのである。……懐紙の、白い折鶴が掌にあつた。「此の飛ぶ処へ、すぐおいで。」(略)此が落ちた大な門で、はたして宗吉は拾はれたのであつた。

 電車を待つ間、宗吉はもう一人の女に声を掛け、どこか様子がおかしな、眉のきりりとした女がやはりお千であることを確かめた。今は品川の女郎で心を病む彼女が「巣鴨の病院」に入れられようとしていると知った宗吉は、身分を名乗って彼女を大学病院に入院させ、剃刀を持たせた彼女に「犇と縋つて、潸然として泣きながら、微笑みながら、(略)だらしなく、涙を髯に伝はらせて居た。」

 少し前から、旧万世橋ホーム跡の細長い空地にガラス張りの小さな建物が出来ていることに気付いた。通り過ぎざまに電車の窓からのぞくと、中にテーブルや椅子が置かれてある。鉄道博物館の後身の交通博物館が大宮に引越して数年経った去年、旧万世橋駅の再開発事業が進められ、ホーム跡に喫茶室兼バーが、そして高架の真下に洒落た店が作られたのだった。子供だった昔に返って、ホーム跡に通じる高い石段を昇って、喫茶室兼バーをのぞいてみた。

 電車が窓すれすれに走り抜ける。その向うはゲーム・センターの入る高いビルが視界を遮っていて、神田明神の森は見えなかった。

 

参考図書:
『現代短歌全集』第十五巻(筑摩書房、平成十四年増補版)
『新編泉鏡花集』第四巻(岩波書店、平成十六年刊)

 

筆者プロフィール

久保田 淳(くぼた じゅん)

昭和8年東京生まれ。東京大学名誉教授・日本学士院会員。著作に『山家集』『藤原定家』『野あるき花ものがたり』など多数。鉄道の旅をこよなく愛し、現在も鉄道の旅を続けている。

写真
(写真提供:千代田区広報広聴課)

学生街として賑わい、古書店が立ち並ぶ神保町。
神田古本まつりや神保町ブックフェスティバルなどには多くの人たちが訪れる。
写真は昭和40(1965)年の様子。

 
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