あの日の風景

第12回 御茶ノ水・万世橋旧駅 (最終回) 久保田淳(国文学者)

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 まだ小学生ではない、国民学校の生徒だった頃、何度かこの駅を乗り降りしたことがある。駅の傍に鉄道博物館があったからだ。最初は父親か兄たちに連れられて来たのだろう。しかし、年上の同行者なしに、同じクラスの男の子を案内したこともある。そのあと、その子にいじめられた。きっと、その時私が得意気に案内したことがしゃくにさわったのだろう。その万世橋駅のホームの待合室風景が描かれている小説を知ったのは、ずっと後、多分大学に入ってからだと思う。泉鏡花が雑誌「人間」の大正九年(一九二〇)五月号に発表した短篇「売色鴨南蛮」である。

書籍表紙

「新編泉鏡花集」第四巻(岩波書店、平成16年刊)

 話は、「柳はほんのりと萌え、花はふつくりと莟むだ、(略)春の将に闌ならむとする」頃の午後五時過ぎの、「院線電車の万世橋の停車場の、あの高い待合所」から始まる。

 「大学病院の内科に勤むる、学問と、手腕を世に知らるゝ、最近留学して帰朝した」大学教授の主人公秦宗吉は、いつもは御茶ノ水駅で乗り降りするのだが、その日は長雨でぬかるむ道を避けようと、「本郷どほりの電車を万世橋で下りて」、中央線(作品でいう院線)の万世橋から(住居が芝の高輪なので)品川へ帰ろうと、「例の、銅像を横に、大な煉瓦を潜つて、高い石段を昇つた」。

 ラッシュ時で、しかも上りは停電、下りは故障というので混雑する待合所で電車を待つ間、宗吉は二人の女に目をとめた。そのうちの一人、着付や様子がちぐはぐな印象を与える、しかし、眉が「美しく優しく、然もきりゝとした」女を、十七の時自殺しようとした自分の命を救ってくれた、お千といった年上の女と「寸分違はぬ」と思う。その女は神田明神の森をじっと見ている。

 
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