あの日の風景

第8回 筑紫へ 久保田淳(国文学者)

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 長崎から雲仙の地獄を経て島原へまわり、再建されてまもない島原城を訪れた。島原は緑の眉山を背後に、あくまで碧い島原湾を前にした、美しい町である。そして寛永十四年(一六三七)に起こった切支丹信者と農民の一揆、島原の乱の中心地であった。乱後の島原藩主松平忠房は好文の大名で、その文庫に日本の古典を多数集めた。その全貌が明らかになったのは昭和三十年代の末のことであった。その文庫で写本の類を見せてもらって、島原に一泊した。

 翌日はバスで阿蘇へ向かう。草千里のあたりでバスガイドが米塚と呼ばれる、かわいらしい火口丘を教えてくれた。

 三好達治の詩「艸千里浜」の第二節は歌う。

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中央の大きな池や放牧された馬など、雄大な景勝が望める草千里。特に、夏は緑が鮮やかで一層の美しさを誇る。阿蘇の代表的な風景の一つである。三好達治をはじめ、多くの詩人や歌人が訪れている。

しかはあれ/若き日のわれの希望(のぞみ)と/二十年(はたとせ)の月日と 友と/われをおきていづちゆきけむ/そのかみの思はれ人と/ゆく春のこの曇り日や/われひとり齢(よはひ)かたむき/はるばると旅をまた来つ/杖により四方(よも)をし眺む/肥の国の大(おほ)阿蘇の山/駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)/名もかなし艸千里浜

 昭和十一年、達治三十六歳の時の作品であるという。草千里をバスの窓から眺めながらこの詩を思い起こしていた私は、達治よりは少し若かった。熊本から知人と共に阿蘇に登った夏目漱石と同じくらいな年だった。

 漱石の『二百十日』はほとんど「圭さん」と「碌さん」の二人の会話ばかりから成り立っている作品だが、この二人は二百十日の日に阿蘇に登ろうとして、道に迷ってやむなく引き返す。この小説は、

二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出して居る。

と結ばれている。私達が登った時も噴煙が激しく、噴火口近くまでは行けなかった。豊肥本線で大分へ出、帰りはまっとうな寝台急行で帰京した。

 五年前、„鉄道でめぐる九州“というツアー旅行に参加した。東京から小倉まで新幹線、小倉から別府まで特急、あとは鉄道とバスをこまめに乗り継いで、宮崎・鹿児島、さらに長崎へとまわる、欲張ったコースだった。この時久しぶりに長崎の石畳の道を歩いたが、阿蘇はバスの窓から遠望しただけだった。あの詩を発表した時の達治の倍以上の年となった今、とろとろと走るローカル線に乗り、草千里に佇んで、五十年近く前に見た山や高原を再び見たい思いに駆られる。

 

筆者プロフィール

久保田 淳(くぼた じゅん)

昭和8年東京生まれ。東京大学名誉教授・日本学士院会員。著作に『山家集』『藤原定家』『野あるき花ものがたり』など多数。鉄道の旅をこよなく愛し、現在も鉄道の旅を続けている。

写真

写真提供:熊本県

1986年、国鉄高森線の廃止によって、第三セクターとして生まれ変わった南阿蘇鉄道。阿蘇山を望み、高原の風を受けながらのんびり走る。

 
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