あの日の風景

第5回 城崎から余部へ 久保田淳(国文学者)

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写真:書籍表紙

志賀直哉全集 第五巻
(岩波書店)

 「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた」と書き出され、宿の玄関の屋根で死んでいる一疋の蜂、魚串で刺し貫かれたまま川中を逃げまどう鼠の姿が描かれたのちに、この蠑螈の死が述べられ、「自分は偶然に死ななかつた。蠑螈は偶然に死んだ。(中略)三週間ゐて、自分は此処を去つた。それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かつた」と終わる。この短篇は、自分自身を含めて生き物が避けることのできない死をじっと見つめ、死んだ小動物の遺骸から受ける、寂しいがいかにも静かな感じを、いささかの気負いもなく感じたままに書いた作品である。

 この作品は中学の二年か三年の国語教科書で知った。教科書に載っていたのは一部分で、残りの部分は先生が読んで聞かせてくれたように思う。その時は死を自身の問題として考えることは到底できなかったが、主語をできるだけ省いた、この作品の文体が好きになった覚えがある。

 志賀直哉が山手線に接触して怪我したのは大正二年(一九一三)八月、この作品を書いたのは同六年四月のことであるという。大正の初めのこの温泉街はずいぶん鄙びたものだったのであろう。

 しかし、舒明天皇の時代から知られていたというくらいだから、城崎温泉の歴史は古い。「古今和歌集」に載る藤原兼輔の歌、

夕づく夜おぼつかなきを玉くしげ二見の浦はあけてこそ見め

の詞書にいう「但馬の国の湯」は、この温泉のことと考えられている。鎌倉時代には天橋立から「きのさきの出湯召しに」下ったお后もいた(「増鏡」)。「徒然草」の著者兼好も、花の盛りに「但馬の湯」の帰途、雨に降られて、

しぼらじよ山分け衣春雨にしづくも花もにほふたもとは

と詠んでいる。城崎温泉は歌枕でもあるのだ。

 温泉寺や四所神社に詣でたのち、一旦宿に戻り、送迎バスに乗って外湯に入りに行く。宿泊しても外湯に入るのがここの風習という。「城の崎にて」にも出てくる、一の湯というのに入った。そして、蟹づくしの夕食。正直にいうと、これはいささか期待外れだった。

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