あの日の風景

第3回 初めての伊勢路 久保田淳(国文学者)

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写真:書籍表紙

歌舞伎オン・ステージ3『夏祭浪花鑑/伊勢音頭恋寝刃』(白水社)

写真:書籍表紙

岩波文庫『芭蕉紀行文集』(岩波書店)

 四時半に仕事を切り上げ、適当な旅館を教えてもらう。宿は決めていなかったのである。出納係の婦人が「古市の麻吉がいいでしょう」と、地図を書いて教え、さらに電話を掛けて、部屋が空いているかどうか確かめてくれた。

 伊勢の古市という地名は脳裏に刻み込まれていた。それは歌舞伎芝居の「伊勢音頭恋寝刃」の山場が展開される土地の名だからである。

 伊勢神宮の御師(下級神宮)で元は武士であった福岡貢は、旧主家の重宝青江下坂の刀の折紙(鑑定書)を探し求めている。彼には古市の遊郭油屋の遊女お紺という恋人がいる。お紺の客で貢にとって敵方の人間が折紙を持っている。お紺はそれを手に入れて貢に渡したい一心で、満座の中で仲居の万野(貢の敵方と気脈を通じている)に意地悪されている貢に愛想尽かしをする。

貢 身不肖なれども福岡貢、女をたばかり金 を取る所存はない。
お紺 イゝエ滅多に、潔白には云はれますまい。

 このあと、激昂してその場を立ち去った貢は、あずけておいた刀を取りに戻ってくる。万野はまたしても意地悪くあしらう。貢が手にした刀の鞘で万野を叩くと、鞘走って、彼女は斬られてしまう。貢が思い違いして手にしたのは、血を呼ぶ妖刀青江下坂なのであった。ゆっくりとしたテンポの伊勢音頭が流れ、遊里の女達が静かに踊る中で、貢は血に酔ったように出合う人間を次々と手にかけてゆく。

 中学三年の頃から歌舞伎を見始めて、乏しい小遣いをはたいて幕見などをするようになっていたから、この芝居には馴染んでいた。この伊勢の旅に出る一週間前にも、当時渋谷にあった東横劇場で菊五郎劇団の若手が演じるこの芝居の通しを見たばかりだった。その古市に泊まるのも何かの因縁だろうか。

 文庫から古市まではさほどの距離でもなかった。街はこれが江戸時代の遊興地とは到底思われないほど、ひっそりしていた。麻吉は崖に懸る形で建てられた、大きな木造建築だった。小路を隔てて向かいあった建物が渡り廊下でつながっている。玄関から入って、崖の中腹あたりらしい部屋に通された。ここも蝉の声が降るようだった。大きな蚊が寄ってきた。その時は気付かなかったのだが、この宿は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にその名が見える、江戸時代からの店なのである。昔は部屋からの眺めの良さで知られた料理屋であったらしい。

 夕食後、宿の小母さんに勧められて、内宮へお参りした。すでにあたりは暗く、境内の灯籠には明かりがともっていた。貞享元年(一六八四)、芭蕉が、

みそか月なし千とせの杉を抱くあらし

と吟じたのは外宮に詣でた時のことだが、森厳な神域の雰囲気は内宮も変わる筈がない。

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