あの日の風景

第2回 遠州・二俣まで 久保田淳(国文学者)

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写真

遠州鉄道。
二俣電車線 カテナリー化工事完成し、ポール式からパンダグラフ式へ以降したころ。1952年。
写真提供:遠州鉄道株式会社

 Hさんと浜松駅で別れ、浜松市内で油を売ってから遠州鉄道に乗る。単線で二両連結、浜松構内を出たところでスイッチバックがある。「ぼろ電車だ」とI は卑下したが、街を抜けると速度を増した。初めて見る遠州の野の空に高圧線の鉄塔が高かった。後で思えば、この電車は歌枕の引馬野あたりを走っているのである。一時間近く走って終点西鹿島に着いた時、夏の日はとっぷり暮れていた。

 二俣は長野県と静岡県の境の山峡を流れてきた天竜川が平野に出て、川幅を拡げつつ大きく東に曲がる、その曲がり角に位置する町である。戦国時代、織田信長の圧力に屈して、徳川家康が涙を呑んで長男の信康を切腹させた二俣城跡という史跡もある。西鹿島は天竜川の南岸で、遠州鉄道と国鉄二俣線(現、天竜浜名湖鉄道)の連絡駅。二俣の中心は川の北岸、二俣線の二俣本町付近であろう。

 その二俣線のガードをくぐり、天竜川に懸かる長い吊橋を渡り、これまた長いトンネルを抜けて、夜の二俣の町に入った。Iがいう、「ここの花火は音がすごいぞ。何しろ天竜の両岸の山に反響するからな」。

 それから三日間、昼は祭りの屋台や獅子舞いを見物し、夜は頭上に大きく咲いて散る火の花傘を仰ぎながら、まだ飲みなれていなかったウィスキーをあおった。私に酒を教えてくれたのもIであった。
 そんな付き合いをしてきたIは癌を病んでなくなった。五十六になっていただろうか。

 なくなった翌年の春、二俣のお寺に納骨するというので、こだまで浜松に向かった。三十八年ぶりの遠州鉄道はすっかり変わっていた。前は国鉄浜松駅構内の端から出ていたのだが、今の始発駅新浜松はJR浜松駅近くのビルの二階である。車両も近代的な感じで、昔よりもずっとスピード・アップされていた。

 I家の菩提寺は信康山清瀧寺という。若くして非業の死を遂げたあの徳川信康が葬られているお寺で、I家の墓はその信康の廟のすぐ近くだった。庭には白藤が咲いていた。

 納骨が済んで、町の料理屋で、故人の親族縁者・知友など十余人が故人の思い出話をした。帰りはたくましく成長したIの二人の息子が、浜松までライトバンで送ってくれた。田野にはところどころ蓮華草が咲き残っていた。

 Iを見送ってからもう四半世紀近くになる。それ以後、浜松駅は時折新幹線で通りすぎるだけである。

筆者プロフィール

久保田 淳(くぼた じゅん)

昭和8年東京生まれ。東京大学名誉教授・日本学士院会員。著作に『山家集』『藤原定家』『野あるき花ものがたり』など多数。鉄道の旅をこよなく愛し、現在も鉄道の旅を続けている。

写真:歌碑

宇津ノ谷越えの古道「蔦の細道」に、文中に登場する業平の歌碑がある。当時難所とされていたこの細道は現在は、ハイキングコースとして親しまれている。

『伊勢物語』に記された宇津ノ谷峠越えの道は、京から東へ抜ける主要ルートでした。絵図や浮世絵に描かれたり、紀行文や歌舞伎の題材にとりあげられたりして、全国的にも有名な街道です。2010年、「東海道宇津ノ谷峠越」は国の指定史跡になり、現在でも文学や歴史を感じさせるハイキングコースとして人気があります。
また宇津ノ谷峠の手前の集落には、風情を感じさせる家並みが残っています。
31施設も国の登録有形文化財となっている天竜浜名湖鉄道は、駅舎はもちろんですが、その沿線から見える風景もまた、日本の原風景を思い出させてくれるものです。

 
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