NUA WORLDトップ > 歴史探訪 >  第17回 山形〜米沢 直江兼続と上杉景勝、義と愛の里をゆく
歴史探訪
 

日本近代史をギュッと封じ込めた街・小樽

訪問した人
山形県信用保証協会
総務部システム経理課
主査 飛塚佳子さん

[写真]
長谷堂城址の頂上にて。山形市内を一望

 戦国時代を義と愛の精神で生き抜いた米沢藩の直江兼続と上杉景勝の生涯は、いまも人々の心を魅了してやみません。山形市、米沢市内の上杉家ゆかりの地はたくさんの観光客でにぎわいをみせています。

 この地を旅するのは山形県信用保証協会の飛塚佳子さん。飛塚さんは、山形生まれの山形育ち。就職先も山形という生粋の山形っ子。現在は総務部システム経理課主査として活躍されています。

 「山形県信用保証協会は中小企業の貸付の保証審査をし、中小企業の金融を円滑化することを目的に業務を行う公的機関です。私は経理システムによる給与の処理を担当しています。責任のある仕事ですから、いろいろと大変なこともありますが、そんなときはジムに行き、エアロビクスでたっぷり汗をかいてリフレッシュします」

 さらに毎日徒歩通勤を心がけているという飛塚さん。彼女がはつらつと仕事をこなす日常の土台には、こうした日々の健康づくりの心がけがあるのでしょう。

出羽の関ヶ原、長谷堂合戦の地へ

写真
足場の悪い登山道。急斜面にはシャガの葉の群生が
写真
頂上にぽつんと長谷堂城址の碑が建てられている

 最初に向かったのは長谷堂城址公園。ここは1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」と同時期に起こった「出羽の関ヶ原」と呼ばれる「慶長出羽合戦」の主戦場の舞台として知られています。

 当時、豊臣側(西軍)の上杉景勝は会津大名で五大老の一人であり、一方、徳川側(東軍)の最上義光は、奥羽諸大名の主将でした。この年の7月、上杉景勝は徳川軍の動きを読みながら、最上侵攻を決断。米沢城主、直江兼続を総大将とする二万の大軍をもって長谷堂城を攻め落とそうとしましたが、人数では圧倒的に不利な最上家側の激しい抵抗を受け、あえなく撤退したと伝えられています。

 「出羽の関ヶ原」の戦いにより、「難攻不落」として戦史に名を残した長谷堂城は標高約230メートル、麓からの高さ約85メートル、南北約670メートル、東西約400メートルの亀の形に似た小規模な独立丘陵の地形を生かして作られました。

 敵の侵攻をできる限り防ぐために工夫された水堀や切り岸、曲輪、土塁、帯曲輪群、横矢掛り、虎口などなどの遺構を興味深く見学しながら登山を続けます。

 「長谷堂城は立地的にもその形状も、敵の侵攻を防ぐためのまたとない砦だったのですね」

 急斜面にはシャガの葉がびっしりと群生しています。そのつるつるとした長い葉はすべりやすく、つかむとあっさり抜ける性質から、敵が斜面を登りにくくするために植え付けられたといいます。

 「自然に生えているかのようなシャガの葉が、侵攻を防ぐために植えられたものだとはじめて知りました。先人の知恵には驚かされます」

 長谷堂の前の道を幾度か車で通ったことがあるという飛塚さんですが、登山ははじめての体験。

 「ここが合戦の地であったことは知っていましたが、こうして登ってみるとあらためて歴史を感じることができますね」 

 

上杉廟所から上杉神社へ。上杉家の歴史を辿る

写真
上杉廟所にて
写真
上杉神社には参拝客が後を絶たない

 山形市を後にし、米沢市へ。上杉家ゆかりの地を巡ります。まずは、米沢藩主上杉家の墓所、上杉廟所に向かいました。地元では昔から「御廟」または「おたまや」と呼ばれ親しまれてきました。1984年(昭和59年)には国の史跡に指定されています。

 元和9年(1623年)二代景勝公(米沢藩主としては初代)が亡くなったときこの地で火葬し、位牌を納めて廟所としました。明治9年(1876年)、上杉神社から謙信の遺骸が移され、現在の形になりました。正面中央が謙信の廟で、その左に初代藩主景勝から、左右交互に12代斉定までの廟が立っています。装飾のない質素な廟所は、上杉家古来の質実剛健な家風を表しているといいます。

 「藩主一人一人のお墓になっているんですね。米沢で上杉家がいかに尊敬されていたかが伝わってきます。」

 中央の上杉謙信の廟所前で参礼する飛塚さん。樹齢400年の老杉が雨に濡れて凛とした空気を生んでいます。

 続いて上杉神社に向かいます。越後春日山城に祀られていた謙信の祠堂は、慶長6年(1601年)、景勝が米沢藩に移封されたのに合わせ、米沢に遷されました。明治になって、謙信と上杉鷹山を祭神とする神号が許され、米沢城本丸跡(現在地)に社殿が建てられました。

 「同じ山形県ですが米沢まで来ることはあまりないので、こうして上杉神社と御廟所にお参りできてよかったです。今回の旅は、私にとって故郷の歴史をあらためて感じる貴重な体験となりました」

 
(2009年12月21日掲載)

「上杉家と直江兼続」一口メモ

写真
米沢駅に降り立つと直江兼続が迎えてくれる

■ここでチェック

 天正6年(1578年)に上杉謙信が急死した後、その家督をめぐり、謙信の2人の養子であった上杉景勝と上杉景虎との間で内乱が起こりました。この内乱は“御館の乱”と呼ばれるもので、このとき、樋口(直江)兼続は父・兼豊とともに景勝方につき、景勝の側近として活躍することになります。
 天正9年(1581年)に、景勝の側近・直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害されるという事件が起こります。これを機に、兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった“おせん”こと船の婿養子になり、跡取りのない直江家を継いで越後与坂城主となりました。以後、上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入りました。
 天正12年(1584年)に秀治が病に倒れた後は、内政・外交の取り次ぎのほとんどを兼続が担うようになりました。秀治の死後は、兼続一人で執政を行い、生涯、景勝に使えました。当時の上杉家の家臣たちは、景勝を“御屋形”、兼続を“旦那”と呼んでいたことから、事実上は二頭政治に近いものであったことがうかがえます。
 出羽の関ヶ原ではあえなく最上軍に敗れた上杉軍ですが、この戦の後で景勝・兼続の二人はともに責任を負い、家臣の生活を守り、絆を深めたとされています。
 景勝と兼続の主従関係は、義と愛の精神に満ちたものだったことも、戦国時代のロマンとして伝えられています。


pagetop