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SPECIALINTERVIEWオリンピックで、技術は進化する

1964年、東京オリンピックにおける 世界初の衛星テレビ中継は、
いかにして実現し、何をもたらしたのか?

村主行康さん 石澤禎弘さん

1964年に開催された前回の東京オリンピックは、通信技術の歴史に大きな一歩を記す、記念すべき大会となりました。世界で初めて、オリンピックの衛星テレビ中継が実現したのです。
そして実はこの快挙には、NECが大きな役割を果たしていました。
当時、衛星テレビ中継実現のために奔走された元郵政省電波研究所所員の村主行康さん、石澤禎弘さんにお話をうかがい、そのときの状況や、携わった人々の姿勢と想い、NECとのかかわり、後世にも影響を与えた意義などについて、お伝えします。

村主行康さん 石澤禎弘さん

国民が想いを一つにして、東京オリンピックを世界へ

―――1964年の東京オリンピック開催を控えた日本の状況、また当時の通信技術の状況は、どのようなものでしたか?

村主まだ終戦から間もなく、欧米に追いつけ、追い越せという気概をもち、日本全体がさまざまな分野で努力を重ねていました。通信分野ではマイクロ波※の技術に関してアメリカに大きく遅れており、我々はアメリカの資料も参考にしながら研究に励んでいました。

※マイクロ波:電波の周波数による分類のひとつ。波長が1mより短い電波の総称。現在では衛星テレビ放送をはじめ、幅広い分野で用いられている。

石澤終戦後、まず求められたのが、電話の普及でした。そのためにも、マイクロ波の技術開発が急がれていたのです。東京オリンピックの開催前には、マイクロ波を用いた無線中継の整備も進み、ほぼ完成していました。

村主そのころには、テレビの開発も進み、白黒に続き、カラーテレビも登場しました。一方で、海を越えての電波による映像の伝送回線はまだ存在せず、映像をテレビで世界に配信する手段はありませんでした。 しかし、東京オリンピック開催の決定に伴い、オリンピックを成功させるのと同時に、テレビを通じてその様子を世界中の家庭に届けることもまた、国の大目的として掲げられたのです。国民一丸となって東京オリンピックを成功させようという熱気の中、我々は海外へのテレビ中継の実現に力を尽くすことになりました。

わずかな準備期間で地上局の完成に導いたNECの取り組み

―――東京オリンピックの映像を世界に届けるための準備は、どのように進められたのでしょうか?テレビ中継には衛星通信が用いられましたが、当時の人工衛星の状況と合わせ教えてください。

石澤元々1962年~63年頃から、アメリカではテルスター衛星、リレー衛星によるテレビ伝送実験が行われていました。電波研究所でもこれらの衛星を使ってマイクロ波による伝送実験を行っており、当時の電波研究所の上田弘之所長は、東京オリンピックのテレビ中継を何が何でも実現しようと言っていました。
アメリカは衛星通信を自国以外まで広げて活用するため、1964年に地上局委員会を設置し、各国に参加を要請しました。日本からこれに参加したのが、電波研究所とKDD(国際電信電話(株))です。この地上局委員会の場で、東京オリンピックのテレビ中継に人工衛星を使用したいとの申し入れがなされました。

村主上田所長が、NHK、NECなどと連携しながら、アメリカの機関への説得にあたったのです。

石澤初めは、人工衛星を管理・運用するNASA(アメリカ航空宇宙局)は消極的な姿勢だったようです。理由は、当時テレビの中継に使用できる性能を持った衛星は、テルスター衛星、リレー衛星のみで、この両衛星は共に中高度を周回する衛星で、長時間を費やす中継には不向きだったからです。
そこで候補に上がったのが、アメリカのヒューズ社が開発した、長時間の中継が可能な静止衛星、シンコム衛星です。

石澤本格的な静止衛星のシンコムⅢ号の打ち上げが東京オリンピック開催の1964年の夏ごろに予定され、NASAもようやくオリンピックテレビ中継の実現に乗り出しました。

―――7月23日にシンコムⅢ号を衛星中継に利用することが決まり、実際に打ち上げられたのが8月19日です。オリンピックの開会式まで2カ月を切ったなかで、よくテレビ中継を実現させることができましたね。

村主送信設備の新設には時間がかかりますから、すべてが正式に決定してから準備を進めていたのでは、もちろん間に合うはずがありません。そこで大きな役割を果たしてくれたのがNECです。

石澤シンコム衛星を開発するヒューズ社は、ある時点で、衛星中継の実現にめどをつけていました。しかし、それを前進させるためには、日本側のパートナーが不可欠です。そのパートナーに選ばれたのが、高い技術力と信頼性を有するNECでした。 衛星中継が正式に決まっておらず、予算も組まれていない状況のなか、両社が負担とリスクを背負い、技術課題の解決の検討や、通信機器の開発、製作を着々と進めていました。だからこそ、わずかな準備期間でも、東京オリンピックの衛星中継は成功を収められたのです。上田所長が衛星中継を推進できたのも、そうした経緯をご承知されていたからでしょう。

―――お二人は、具体的にどのような役割を担われたのですか?

村主代々木のNHK放送センターを経た競技場の音声と映像を小金井の電波研究所で受け取り、筑波山を経由して茨城県の鹿島地上局に送るのが、私の役目でした。小金井にはNEC製のVTRも設置し万一に備えました。当時は電離層観測データを敷地内から電波発射していたので、その電波が中継画質に影響を与えないよう対処することも厳命されていました。
筑波山は雷が多く、中継所のヒューズがしばしばとんでしまいます。それを交換するために、現地へ出向くこともありました。

石澤当時、電波研究所の鹿島支所に籍を置いていた私は、地上局設備の変更、送信機や映像用端局装置などの新設に取り組みました。リレー衛星とシンコムⅢ号では使用する電波の周波数が異なるため、改造が必要だったからです。
パラボラアンテナについては、従来の30m øのアンテナに加え、10m øの送信用アンテナを新たに設けました。元々、鹿島の地上局の設備はすべてNECが手がけ、さらにシンコムⅢ号用の機器も周到に用意されていたので、6月から本格的に着手した大改造も期限までに終えることができたのです。

中継の成功が日本の底力を証明し、衛星通信発展の礎に

―――特にご苦労されたのは、どのような点ですか?

村主まず、何よりも、オリンピックの開催に間に合うように、すべての物事を運ぶということです。鹿島の地上局、小金井の電波研究所、それぞれがきちんと役割を果たさなければ、東京オリンピックのテレビ中継は実現できません。既存の技術と新しいテクノロジーを組み合わせて、さまざまな工夫を施しながら、期限に間に合わせるというのが、至上命題でした。

石澤シンコムⅢ号は打ち上げられたばかりで、まだ十分なデータが得られていません。地上局の準備を進めながら、シンコムⅢ号を追尾して受信を欠かさず、そのデータをアメリカに送るのも、重要な職務でした。同時進行しなければならないことが多く、毎日仕事に追われていました。

村主あらゆることが同時進行でした。それでも、我々、電波研究所の所員ばかりでなく、関係者全員が大目的に向かって力をつくしていると、自然と息も合ってくるものです。現場は、昼夜の別なく、エネルギーに満ちあふれていました。

資料とともに当時を振り返るおふたり

―――その結果、東京オリンピックの大会そのものも、世界で初めての衛星テレビ中継も、大成功を収めました。当時の率直なご感想、その意義についてもお聞かせください。

村主まずホッとしたというのが、正直なところです。「よかった」と思うのと同時に、「くたびれた」と感じたのも、そのときの偽らざる気持ちでした。そして、日本の通信技術が世界で評価され、国としても見直され、それによって国民を勇気づけられたのが、衛星テレビ中継成功の大きな意義だったといえるのではないでしょうか。

石澤いざ中継が始まってしまえば、映像と音声がきちんと流れているかどうかを確認して、あとはただ見ているだけですから、少々気が抜けたような感覚になったのを覚えています。
衛星中継の成功は、静止衛星が大陸間通信に非常に有効であることを実証しました。短波による音声での実況中継、写真電送による競技結果の伝送など、オリンピックとともに発展してきた遠距離通信の歴史に、1964年の東京オリンピックでは映像をほぼリアルタイムで届ける衛星テレビ中継が加えられたのです。さらに、この成功は、その後の衛星通信の発展の礎となりました。

未来に向け、人々の幸福に貢献できる技術を創出してほしい

―――2020年の東京オリンピックに向けて、通信技術、
またそれに携わる技術者に、どのようなことを望まれていますか?

石澤映像通信技術でいえば、1964年と現在とでは、移動通信が可能なことや、データの取り扱われ方、通信の範囲など、隔世の感があります。1964年当時の衛星中継のような規模の大きな開発はないかもしれません。しかし、細かなこと、特殊なことなど最先端の技術を生かして、オリンピックや世の中に対して貢献できる製品が見つかるはずです。
技術者には、テクノロジーとは何か、エンジニアリングとは何かということをよく考え、世の中に求められている最良の技術を探し出し、それを磨いて、新しいものを創り出していってほしいと願っています。

村主1964年の東京オリンピックでは、世界の家庭に映像を届けられました。2020年のオリンピックで登場する技術を予測するのは難しいですが、いずれにせよ大切なのは、その技術が人類の幸福に貢献できるかどうかということです。
技術は、人類の幸福にどれくらい役に立ったかという観点から評価されなければなりません。だからこそ、今を生き、未来を担う技術者には、「how to」から「why」への道を歩んでほしいのです。つまり、どう開発するかではなく、なぜ開発するのかを自らに問いながら、よりよい社会の実現につながる成果をあげてくれることを期待しています。